知られざるスイスの名指揮者たち
1907年にバルスタールに生まれ、ベルリンでシェーンベルクに学んだエーリッヒ・シュミットという指揮者は、フランクフルトの放送局に勤めた後、チューリッヒ・トーンハレ管の常任指揮者に1949年就任しました。またチューリッヒ音楽院でも教鞭をとり、後進を育て、バーゼル放送響などスイス各地のオーケストラをはじめ、ヨーロッパ各地に客演した指揮者です。バーゼル放送響の25周年記念CDにモーツァルトの序曲の演奏が残されています。
「フィガロの結婚」序曲などは旧スタイルのワルター等の演奏様式に近いテンポ設定を感じさせるもので、ゆるやかなテンポの変化がロマンチックな香りをももたらしているように思われます。
ローザンヌにはスイス・ロマンド放送の第二オケとして生まれたローザンヌ室内管弦楽団があります。このオケの創設に尽力したヴィクトル・デザルザンは初代のローザンヌ室内管の音楽監督として60年代まで活躍した指揮者であります。
デザルザンは、1907年、シャトー・デーに生まれました。カニュパン、フォン・ヘスリング、ドゥネレアといった人たちについて学んだ後(どういう人たちか詳しくは分かりません)、はじめはスイス・ロマンド管のメンバー(バイオリン)として入団しました。
1945年。ローザンヌ室内管弦楽団を自身で組織し、その指揮者として新たなスタートを切りました。また並行して、スイス・ロマンド管やヴィンタートゥーア管に客演を続け、更にウィーンやヨーロッパ各地に客演を続けました。
多くのポピュラー名曲をMCA等に入れていますが、ほとんどが廃盤のままで、わずかにモーツァルトのポストホルン・セレナード等の録音が出ていたり、ティポーの晩年の演奏のライブが出ていたりしますが、こうした古典をはじめとする、パロックの音楽を中心に演奏活動を行ったようです。
もちろん、現代物も多く演奏したようで、その一部がCD化されていたりもします。
更に、マショー、デュファイ、ガブリエリといったルネッサンス以前の古楽の作品の楽譜の校訂をおこなったりもしていますから、多才な人だったのですね。
このヴィンタートゥーアのオーケストラのヴァイオリン奏者クレメンス・ダヒンデンも、経歴等が不祥のままですが、あのペーター・リバールがソロを弾いたヴィオッティのヴァイオリン協奏曲等の録音でオケを振っていた指揮者として、長く記憶に残す人となりました、リバールと共にヴィンタトゥーア弦楽四重奏団でヴァイオリンを弾いていた人で、オケでもリバールに次ぐポジションにいたものと想像されます。
ただし、かれについてはあの1枚が無ければしらないままに終わったものと思われますが・・・。
ジャン・マリー・オーバーソン(おそらくはジュネーヴの指揮者)はバーゼル放送響の初代の音楽監督として活躍しました。彼が録音したゴダールの組曲「イタリアの風景」の中の「シチリアーノ」の極めて抒情的な美しい演奏が記憶に残っています。あとフルニエと共演しての録音もありますが、オーバーソンを代表するのはラフの交響曲第9番「夏」を振った素晴らしい演奏でありましょう(Tuder)。
また、瑞西イェックリンにスイスの作曲家アルミン・シブラーの「トリスタンの熱狂」の初演のライブが出ていて、1980年9月15日モントルー音楽祭ということですから、かなり最近まで活動はしていたようです。
ついでにこの「トリスタンの熱狂」を紹介しておくと、オーケストラと合唱、ロックバンド(!!)、四人のソロ歌手と三人の朗読という、なかなかオドロオドロシイ編成で、何やらジャズ・ロックと現代音楽の融合みたいな、かつてやたらと作られたタイプの曲ですが、フッテンロッハーなども参加している、当時は鳴り物入りの作品であったのでしょうが、今聞くと「007」の音楽をやたらと大きな編成でやっていて、ウェストサイド・ストーリーに変にまじめぶった合唱がつく、不思議な融合を示しています。うーん、忘れ去られても仕方ないかなぁ。
他にウィーン国立歌劇場管とも録音を残していて、バッハのカンタータとマニフィカートを入れたCDは今も手に入ります。スイスの名歌手マリア・シュターダーなどと共演したもので、非常に流麗なバッハを聞かせたものであります。まあ人によっては食い足りないというかも知れませんが、私にはなかなか良い演奏であったと思われました。
フルトヴェングラーとよく共演したピアニストにスイス人のエドウィン・フィッシャーとアドリアン・エッシュバッヒャーがいましたね。エッシュバッヒャーとはベートーヴェンの第一番とブラームスの第二番がルツェルン音楽祭管とで残されていますが、弟のニクラウス・エッシュバッヒャーもまた指揮者でありました。
1917年4月30日にチューリッヒ近郊のトローゲンで音楽一家に生まれた彼は、最初に父からピアノを、そして。チューリッヒ音楽院でフォルクマール・アンドレーエに指揮法を師事し同時に作曲とピアノを修めたそうです。更にベルリン高等音楽院(あのヒンデミットが作曲を教えていた戦前のドイツでは最も水準の高い音楽学校だった)に留学。1938年にバイロイト音楽祭で助手を務め、ドイツ国内の歌劇場で指揮を続けた後、1943年にベルン市立歌劇場の指揮者に、1949年には同歌劇場の音楽監督に就任しました。
彼は1954年から2年間、NHK響の常任指揮者を務めたことも我が国との関わりという点で忘れられない点ですが、その後、ドイツのデトモルトの歌劇場、音楽アカデミーを中心に活躍していました。
ずいぶん前に小沢征爾の推薦でサンフランシスコ響から京都市響の首席指揮者(1976〜1978)をやっていたニコラウス・ウィスという指揮者が1936年チューリッヒ生まれのスイス人指揮者であったのですが、さて今はどうしているのでしょうか。
このあたりから演奏を実際に聞いたことがない人の名前が連続しますが、興味をお持ちのごくごく少数の方に向けて先を続けたいと思います。
アンセルメの先輩格で、1877年生まれ(ちなみにアンセルメは1883年)で、アメリカに移住した指揮者でルドルフ・ガンツという人を知っているという人は、音楽鑑賞の超ベテランだけでありましょう。
チューリッヒに生まれたガンツは10歳の時にチェリストとして公演をし、12歳でピアニストとしてデビューという天才でありました。チューリッヒ音楽院に学んだガンツは1899年にはピアニストとしてベルリン・フィルの公演でベートーヴェンやショパンの協奏曲を弾いたそうですから、「昔天才、今はただの人」というようにならずに済んだようですが、おそらくは大変な努力を傾注していったのではないでしょうか。
1901年からシカゴでピアノ教授となり1905年からはアメリカで、次いでヨーロッパで第一次世界大戦をはさんで活躍したそうです。
現代音楽にも理解を示し、多くの作品を演奏しました。これはスイスの多くの音楽家に共通することでありますが1921年からセントルイス響の指揮者となりレコードも多数録音されたようです。残念ながら私は聞いたことがありませんが、どんな演奏をしたのでしょうか。
更に聞いたことのない指揮者の名前を出します。1878年生まれのフリッツ・ブルーンです。ベルン響の指揮者を37年にわたって勤めあげたということと、ヘルマン・ヘッセとの長い交友によっても知られるスイスの名指揮者で、アンドレーエと共に、当時のスイスのドイツ語圏を代表する指揮者てありました。
彼は、1959年に亡くなりましたが、残念ながら、今日では全くその演奏を聞くことが出来ない指揮者の一人です。
ただ作曲家としても有名で、私は彼の交響曲第2番(1910/11)を持っています。ルツェルンのワーグナー記念館でお土産用に置いてあったもので、1992年からルツェルン交響楽団の指揮者(Proncipal conductor)を勤めるドイツのオラフ・ヘンツォルドの指揮するものでしたが、牧歌的で、ちょっとブラームスの交響曲に似た感じの作品でありました。20世紀とは言え、ブラームスが亡くなってまだ十年あまりの時代ですので無理はないのかも知れませんが、大変保守的な作風であるように思います。しかし、牧歌的のびやかさと、響きの優しさで、多くの人にとって親しみやすい作品であると言えるのではないでしょうか。
かつてアンセルメと共にスイス・ロマンド管を率いていたエドモンド・アッピアという指揮者も名前だけですが、時折文献で見かけたりします。1894年にイタリアのトリノに生まれたイタリア人ですが、ブリュッセルでリュシアン・カペー(何と!!)に学んだ後ヴァイオリニストとして活躍。1932年からスイス・ロマンド管のコンサート・マスターに就任し、1935年、ローザンヌ放送響の指揮者(ローザンヌ室内管の前身)、1938年からスイス・ロマンド管の常任指揮者となった人です。放送局関係のオケを振っていた関係か、戦後アメリカの音楽雑誌に通信員としてヨーロッパの音楽情報を送っていた人物としても一部の音楽評論家等の間では有名だった人でもありました。
で、どんな演奏をした人だったのでしょうね。
1908年フランクフルトに生まれたアレクサンダー・クランハンスもまたスイスの指揮者として活躍した一人で、バーゼル市立歌劇場の指揮者として有名だったようですが、私は文献で見かけたに過ぎません。
ここらでちょっと聞いた指揮者も入れておきましょう。1893年にミュールハウゼンに生まれ、1912年からバーゼルに住み、バーゼル音楽院の教授も長く勤めたハンス・ミュンヒです。(ミュンシュとも表記されることがある指揮者です)バーゼル音楽協会管弦楽団(後のバーゼル交響楽団の前身)の常任指揮者として長く勤めた彼は、ワインガルトナーと共に、バーゼルの音楽水準の向上に著しい貢献をしたと言えましょう。彼が振ったものとして、アドルフ・ブッシュと共演したブラームスのヴァイオリン協奏曲が出ていますが、音飛びもある粗悪な録音の彼方から、熱いロマンが迸り出ると言ったスゴイ演奏でありました。
演奏者を告げないで聞かせたら、まぁ多くの人はその演奏の素晴らしさに驚くのではないでしょうか。もちろんブッシュのソロも熱いもので、最初はちょっと走り気味になるほど、曲に入れ込んでいる様子が伝わってきます。
私はこうした演奏はフルヴェン以外ではあまり好まないのですが、この大きな構えというのではなく、深い思い入れを音にしたミュンヒの演奏に心から拍手を送りたいと思います。(arbiter-117)
さて1887年にヴィンタートゥーア生まれのヴァルター・ラインハルト(ラインハルト家とはつながりがあるのかどうかは不明。多分関係ない?)という合唱指揮者もいたことを忘れてはなりません。昔彼のバッハを中古レコードで買ったコンサート・ホール盤で何度も聞いた憶えがあります。マニフィカートとえっとカンタータが一曲ありましたっけ。どんな演奏だったか、もうすっかり忘れましたけど・・・。
1920年からチューリッヒの合唱団を指揮していて、バッハの権威として高名であったようです。
スイスは昔から大変合唱音楽が盛んで、特に19世紀の音楽教育家のネーゲリの活躍により、大いに水準をあげたと言われています。そうブラームスがトーンハレのこけら落としで指揮したのも合唱でしたね。
この伝統の上にバーゼル・マドリガリステンの指揮者フリッツ・ネフやローザンヌ・プロアルテ合唱団、ロマンド合唱団を率いるアンドレ・シャルレ、それにミッシェル・コルボといった人たちが続いているのです。
彼らの目覚ましい活躍はまたいつかスイスの合唱音楽として述べたいと思います。
しかし、ラインハルトのバッハなんて復刻されないかなぁ。どんなだったか聞いてみたい!!(レコードはとうの昔に捨てちゃったので)
ついでになんて言うと失礼ですが、1897年にバーゼルに生まれ、ミュンヘンで学んだ後、ダルクローズに師事(世界的に有名なリトミック教育の巨匠。マルタンも彼に師事)したパウル・ベップレという人もいましたね。ここまでくると知っている人はそうそういないでしょうね。1926年にアメリカに渡ってから、ニューヨークのダルクローズ音楽学校の校長になり、1936年にはデッソウ合唱団の指揮者となりカーネギーホールで演奏会を開いたりしています。たしかレコードもモーツァルト等があったはずですが、ここまでは復刻されることはないでしょうねぇ。
しかし、同じバーゼル生まれのハンス・ハウクとなればひょっとしてというところも無きにしもあらずといったところでしょうか。1900年生まれですが、私の古い資料ではまだ活躍していることになっているので、どうなったのかがわからないのですが、バーゼル、ミュンヘンで学んだあとチューリッヒ放送局のオケの指揮をしていて、その後ローザンヌの方で指揮をしていたようです。ルツェルン音楽祭に出演した記録があるのですが、さてスイスのHMVに録音があるそうです。
一体どんな指揮をした人なのでしょうか。どこかでCDを見かけた気がするのですが、さてどこだったか…。家で探してみているのですが、まだ見つかってはいません。
ロベルト・デンツラーは資料で時折みかける名前です。1892年3月にチューリッヒで生まれた指揮者で、1915年からチューリッヒ歌劇場の指揮者となり、オペラにコンサートに活躍した人で、ベートーベンの交響曲の演奏でも有名だったそうです。で、何故私が彼の名前を知っていたかというと、チューリッヒ歌劇場でのベルクの「ルル」、ヒンデミットの「画家マチス」の初演の指揮者としてであります。またガーシュインの「ポギーとベス」のスイス初演も彼だったことも付記しておきましょう。かつてのチューリッヒの名指揮者であります。自身作曲家でもあったようで、オペラをはじめとして多くの作品を残しています。
あと一人、リガ(ありバルト海に面した町です)に生まれ、チューリッヒで学んだ後ベルリンでも修業を積んだヴィクトール・ラインスハーゲンは、1905年の生まれで、1927年にソロトゥルン歌劇場の指揮者としてデビュー後、1929年にわずか25歳でチューリッヒ歌劇場の指揮者となり、その後1952年にミュンヘンに転出するまで、その地位にあった指揮者であります。1952年からミュンヘンの歌劇場で指揮をしていました。リザ・カーザの伴奏を振ったレコードがあったということですが、私は聞いたことはありません。
結構いるもんですね。
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