シューマンのスイスへの旅

 まだ鉄道などが通っていなかった十九世紀のはじめ、スイスの山岳地方を訪れるのは大変なことだったかもしれません。しかし、若いロベルト・シューマンは一八二九年の夏の休暇をスイスに、そしてイタリアへと旅行しています。当時はハイデルベルク大学に学ぶ十九才の青年でした。
 そろそろハイデルベルクでの勉強も軌道にのってきてフランス語やイタリア語もかなりの上達だったそうで、家族は旅行に対して反対だったようですが、結局シューマンの説得・哀願に負けてこの旅行を許します。
 そしてシューマンは、学校が休みに入ると同時に八月二十一日にハイデルベルクを発ち、馬車でチューリッヒを目指しました。チューリッヒからは徒歩でツークへ。シューマンは書いています。「次々に美しい風景が現れるので全く疲れなかった。リュックを背に登山杖を振り回しながら、どんどん歩いて行った」という徒歩旅行は、「絶えず立ち止まってはあたりを見て、その美しい風景を印象に残そうとしていた」と言います。そして「人の心の美しいエコーを自然に見いだすことが出来る幸せ」を書きつづっています。 
 今日、私たちがアルプスの山を前に感じるあの敬虔な宗教的感情のようなものを、シューマンは感じていたのかもしれません。そしてルツェルンからインターラーケン、トゥーンを経てベルンに着いた後、おそらくは郵便馬車でサンクト・ゴットハルト峠を越え、マッジョーレ湖畔のロカルノに着いてミラノに向かったのであります。スイスを離れたシューマンは、ミラノ、ヴェニスと遊んだあと、帰りはミラノからインスブルックに入り、ここからアウグスブルクを通って二ヵ月にも及ばんとする旅行が終わりました。シューマンの心にスイスの雄大な風景とそこに暮らす人々の素朴な姿が深く刻まれたことは間違いありません。
 そしてハイデルベルクからライブツィヒに戻ったシューマンは数多くの曲折の末、クララと結婚し、ドレスデン、デュッセルドルフと住むところが変わっていきます。クララ・ヴィークの名前がクララ・シューマンになって八年経った一八四八年。シューマンはドレスデンで、バイロンの詩をもとに付帯音楽「マンフレッド」を書きます。
 チャイコフスキーにも同じ名前の作品がありますが、こちらは交響曲の形態をとっていで、オーケストラのみの演奏ですが、シューマンの方はナレーターとソプラノ他の独唱、合唱という編成で、実際の劇としての上演を想定した作品と言えます。
 詩は、原作も出版されていますし、お読みになられた方も多いのではないでしょうか。ロマン主義に根ざした初期の詩として、ゲーテのファウストなどの影響のもとに書かれた、バイロンの傑作に違いないと思いますが、劇としては面白いのかどうかは、わかりません。
 ただ、この作品は、バイロンがラウターブルネンの谷のシュタウブバッハの滝に行って、滝の飛沫にかかる虹を見たりして得たインスピレーションをもとに書かれたというだけあって、ユングフラウの精やサン・モーリスの僧院の僧院長が出る、スイスそのものといった内容の作品です。シューマンも、かつてのスイス旅行でこの風景を見たことでしょう。
 中世のアルプスに居城を置くマンフレッドは、信仰と手を切り、大いなる懐疑、虚無感の中に身を投じる。アルプスの妖精(魔女)と交流を結び、死を望み、現実から逃れようとする。かつて愛した末裏切り自殺に追い込んだアスタルテの霊に出会い、深く謝罪するが許されず、そのまま自分の城の塔で最期の時を迎える。といった内容です。
 懐疑し、ひとり孤独にさいなまれるマンフレッドに対して素朴な信仰の厚いかもしかを追う猟師、敬虔な神の道に生きる中世的な生き方の僧院長を対峙させ、宿命的で劇的な最期を縦軸に描かれた物語は、ロマン主義そのものとも言うべきものなのでしょう。
 この曲にシューマンは序曲と十五のシーンの音楽を作りました。全曲は十一月二十三日に完成したといいますが、このの九月十三日には「ユーゲント・アルバム」が書かれていますし、マンフレッドの完成直後に「降臨歌」というシューマンとしては初めての宗教音楽が書かれました。創作意欲は大きな転換点にさしかかっていたのでした。
 翌年にはドレスデン革命の騒乱に巻き込まれそうになり、一時ドレスデンを逃れるということも起こります。戦火の下、身重のクララが繊細で傷つきやすい夫の身を案じて、献身的に動いてドレスデンを逃れた物語は感動的ですらあります。この時リヒャルト・ワーグナーが積極的にこの革命に加わったために、手配書が出されスイスに逃れるということがあったことは、前に書きましたね。
 シューマンの創作力は絶頂にありました。デュッセルドルフの親友である指揮者のヒラーがケルンに移るにあたって、シューマンに後任におさまらないかと誘いがあったのもこの頃のことで、ドレスデンがシューマンに冷淡になって来ていたこともあり、翌一八五〇年の九月に、このライン川のほとりの町にシューマン一家は引っ越しました。
 最後の創作の輝きを放つシューマンはチェロ協奏曲、交響曲第三番「ライン」等を完成させてゆきますが、指揮者としての仕事は、あまり芳しくなかったようです。最初のシーズンの終わり近くには、デュッセルドルフ新聞にシューマンの指揮に対しての酷評が載ったりして、新しい環境は必ずしも順風満帆とは言えない状態でした。
 美しい「バラの巡礼」を完成させたシューマンは、まもなく新居に移り住むこととなります。演奏会ができるほどの大きな広間と夫妻それぞれの音楽室をもつこの家は、やっと落ち着く場所をシューマンは持ったのでした。こんな中、彼らはボン、ハイデルベルクからバーゼル、そしてヴァレーの谷を通ってサヴォアのシャモニーへ行きます。シャモニーではモンブランの美しい偉容に圧倒され、そしてレマン湖を船でジュネーヴにわたったのでした。それは夕暮れで、きっとモンブランを遠くに仰ぎ見てジュネーヴに向かったのではないでしょうか。
 そして、この後精神に異常を来し、シューマンの晩年は、クララの献身とともに苦悩の日々であったのですが、その中でもこの二度目の、そして最後のスイス旅行のことを素晴らしい思い出として何度も語っているといいます。