スイスの歴史

宗教改革の時代

 ヨーロッパにおける宗教改革は、十四世紀にイギリスに生きたオックスフォード大学教授で、神学者のジョン・ウィクリフ(一三三〇〜一三八四)が聖職者の堕落を批判し、聖職位階制という教皇をトップとする司教、司祭、助祭、その他教役者のピラミッド組織の対して、さらには洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻という7つの神の恩寵の印として尊重されてきたサクラメント(秘蹟)についてのローマ・カトリック教会の考え方に対して批判し、聖書そのものに信仰の基礎をおくべきと、聖書の英訳を試みたりしたことが、宗教改革の嵐の前触れでありました。ウィクリフのこの考え方はロラード派と呼ばれるウィクリフの思想の信奉者を集めますが、ヘンリー五世により徹底的に抑えられてしまいます。
 しかし、ボヘミアのプラハ大学の総長で、プラハのベツレヘム教会主任司祭であったヤン・フスがウィクリフの考えに同調します。フスは、聖書をチェコ語に訳し、当時はオーストリアのハプスブルクの支配を受けていたチェコで、民族主義をはじめて主張し、チェコ語の正書法(正字法とも呼ばれる言語の社会的規範として認められる書き表し方と体系のことで、日本語の正しい仮名遣いや英語の正しい綴りなどのことを言います)の確立に尽力した人物です。チェコにおいては民族的英雄と称えられています。
 彼はボーデン湖畔のコンスタンツで行われた公会議で異端とされ焚刑に処されます。しかし、フスの死後、その信奉者がこのローマ教会と神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントによる弾圧に対し、反乱を起こしました。フス教徒の反乱、あるいはフス派戦争と呼ばれる一四一九年に起こった反乱はこの後、一四三六年にバーゼル公会議がフス派の穏健な部分と和解するまで、皇帝ジギスムントを悩ませ続けたのでありました。

 さてこれらの変革を支えた思想は、ルネッサンス期にギリシャの古典に直接触れることを契機に急速に広まっていった人文主義思想だと言われています。人文主義とは、もともと中世封建社会から、あるいは腐敗したキリスト教会から人間解放を目指した知的運動でありました。
 この時期の最も重要な人物は、オランダに生まれたエラスムスであります。彼は各地を巡りながら、ギリシャの古典の研究や神学関係の古典を研究していく中で、人文主義者として真のキリスト教的信仰と古代の叡知による人間精神の陶冶を目指すという思想を構築していきました。
 音楽好きのために一言。このエラスムスは一四九七年頃だとされていますが大作曲家のヨハネス・オケゲムが亡くなった時に、感動的な哀悼詩を捧げています。またエラスムスはスイスのバーゼルで一五三六年に亡くなりました。

 更に宗教改革から少し話題が離れてしまいますが、ルネッサンスという十四世紀から十五世紀にかけてイタリアを中心に起こった文芸復興の運動もまた、忘れてはなりません。
 このルネッサンス(Renaissanceは「再生」を意味するフランス語)は中世における文化の大革新でした。それまでの宗教的なモチーフ以外での絵画や造形はほとんど認められなかった「暗黒時代」から人間を中心とした表現を復活させたのです。
 コロンブスのアメリカ大陸発見や喜望峰の発見など十五世紀末の地理上の発見がもたらした経済的な拡大と、近代科学の誕生(たとえば十五世紀末から十六世紀初頭にかけて活躍したレオナルド・ダ・ピンチなどを思い浮かべてください)から、こうした変革の時は準備されていたと見るのが正しいのではないかと、筆者は考えています。

 さて、話を戻してこの人文思想が宗教改革の思想的な土台となったことは間違いないことでしょう。
 宗教改革の嵐は一五一七年、マルティン・ルターがドイツのウィッテンベルクで、贖宥状(免罪符)を批判する「九十五ヵ条提題」をウィッテンベルク城教会の門扉にラテン語で掲げた事を起点に、ヨーロッパ全土に広がっていきました。
 一五一九年のライプチッヒでザクセン公ゲオルグの前で、カトリックの神学者エックと公開討論を行い、フスの教えにも福音があると発言し、以来ルターはカトリックと決定的に袂を分かつこととなります。教会法の権威を否定し、聖書が信仰の究極的な規範であるという理念が確立していきます。教会からこの福音主義というルターの思想を撤回するように再三求められてもそれを拒否。その結果、ローマ・カトリック教会から破門され、神聖ローマ帝国から追放されるという苦難の中にも、あくまで聖書を神の言葉とし、信仰のみによって神からの「義認」という救済があるとする基本思想によるルター派の教会組織を作っていきました。
 同じ頃、スイスのチューリッヒで大聖堂の司祭となったツウィングリによる宗教改革の動きが現れてきます。人文主義思想の教養を身につけたツウィングリはアインジーデルンの司祭からこのチューリッヒの司祭として移ってきたのですが、そのころスイスのベルンなどが中心となってヨーロッパ全土に送り出していた傭兵制度に対し、まず強い口調で非難を始めたことから始まります。
 ツウィングリはルターと同様、聖書主義の立場から、礼拝様式の簡素化を徹底して進めます。そのため典礼におけるオルガン演奏を廃したり、合唱を簡素なものにしたりし、芸術上の後退も至らしめたとされます。新しい改革派となったエリアでもこの動きをどんどん取り入れていき、新教の諸州では簡素な礼拝が中心となり、その精神的な面が強調されていったのです。
 ルターとツウィングリは、聖餐問題とされる点で大きく隔たりったのが原因とされています。聖餐問題というのは、キリスト教のミサにおいてキリストの体と血として拝領されるパンとブドウ酒が形質の変化をとげているのか否か,あるいは変化をとげた両者が物質としての本質をとどめるか否かをめぐってなされた論争のことで、筆者のようにキリスト教信者ではない者にとっては、どうでもよさそうな話に思えるのですが、キリスト教においては、信仰の核心に関わる大問題であるのだそうです。
 ともあれ、急進的なツウィングリの宗教改革は、政治的な問題まで踏み込んだもので、スイスの同盟の中のカトリック諸州を大いに刺激し、スイス国内で宗教改革に端を発する争いが起こってしまいます。

 ツウィングリの急進的な改革に対し、バーゼルでは比較的穏健な改革が押し進められます。一四五九年に教皇の勅令により、その翌年創建されたバーゼル大学が、その中心となります。アルプス以北での人文主義の中心としてバーゼルの名は大変高いものがありますが、それは先に述べた人文学者のエラスムスの活躍がその土台となっています。ちなみにバーゼル大学は、一八三六年には州立大学となり、法学、医学、神学を中心とする5つの学部からなる名門としても有名です。
 ライン川の面した商業都市として発展したこのドイツとアルザスに面した州は、一五〇一年にスイスの同盟に入ったばかりでしたが、一五二八年から翌年にかけて、エコランパディウスの指導で宗教改革がなされたのです。ツウィングリとともに宗教改革をおこなった彼はそれでも、ツウィングリほど急進的ではなかったといわれています。