スイスの歴史 |
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前史(何故スイスは四つの言語が話されるのか) 東北部から中央台地ミッテルランドに至る地帯の六五%の住民が話すドイツ語圏、そして西部一帯を占めるスイス・ロマンド(フランス語圏スイス)は全体の十八%。南部スイスのイタリア語圏は十二%で、ロマンシュ語を話す住民はスイス東部のグラウビュンデン州を中心にたった一%。この四つの言語がスイスの国語として認められ、ロマンシュ語を除く三言語が公用語であり、この内二つは小学校から必修となっています。ロマンシュ語が国語として認められたのは一九三八年の国民投票の結果ですから、比較的最近のことで、ロマンシュ語連盟の努力とムッソリーニがスイス侵略の口実にしようとしたとかいう外的な理由によるものだそうですが、大変美しいロマンシュ語によるオペラや劇などが戦後、積極的に作られていることに触れておきたいところです。 この複雑な状況は、スイスの複雑な歴史的な事情と、深い谷と切り立った山々に隔てられた地理的条件によるところが大きいと思われます。 スイスにローマの遺跡があるのをご存知でしょうか。そうスイス各地にその遺跡が残されています。中でもアバンシュにはコロッセウムや神殿など、極めて大規模な遺跡が残されていて、大劇場を舞台にオペラ等が上演されています。ヴェローナにちょっと似てますね。 この地にローマ人が攻めてきたのはキリスト生誕のちょっと前。シーザーのガリア遠征の一環で、アウグストゥスの命を受けたティベリウスとドゥルーススが紀元前15年に全アルプス地方を征服し、ローマ帝国に編入され、ガリア・ベルギカ属州とラエティア属州に編入したのがはじまりです。 悪名高いネロ皇帝の自殺の後(紀元68年)、いくらかの混乱によりスイスもその混乱の余波を受けていますが、五賢帝の時代(96年―180年)ネルウァ,トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウスの5人が支配した時代に至り、ローマ帝国は「ローマの平和」と呼ばれる安定の時代を迎えました。 しかし、ローマ帝国が235年セウェルス帝・アレクサンデルの死から,285年ディオクレティアヌス帝の即位までの50年間の軍人皇帝時代を迎え、政治の腐敗・混乱の中、紀元300年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国再編が行われます。 ヘルウェティー族の住むところはジュラ山地の辺り一帯のセークアニア属州の一部となり、ラエティアは分割されボーデン湖からオーストリアのフォーアアールベルク、今日のスイス東部グラウビュンデン州一帯とティチーノ州の一部が第一ラエティア属州となりました。ヴァレーの谷はそれまでラエティアに属していたのですが、この再編で西アルブス属州に編入されました。 この時代、後のスイスに大きな影響を与えることとなったキリスト教会が各地に作られ、ジュネーブ、マルティニ、アヴァンシュ、アウクスト、バーゼル、ヴィンディッシュ、クールに司教区が誕生したのです。 さてヨーロッパの古代史における大事件として、みなさんはゲルマン民族の大移動ということをご存知だと思います。ゲルマン民族とはゲルマン語を話す諸民族のことです。 もともとのゲルマン人は,東(ゴート族,バンダル族,ブルグント族,ランゴバルド族),西(アングル族,サクソン族,フリース族,カッティ族),北ゲルマン(ノルマン人)に大別されます。彼らの原住地はスカンジナビア〜バルト海沿岸であったのですが、次第に先住ケルト人等を圧迫しつつ南下,前2世紀からローマ領に侵入しはじめます。これに対する防御としてスイスの地域が利用されたと言われます。 やがて4世紀後半からフン族(中央アジアの騎馬民族)による襲来が度重なることでゲルマン民族は南へ西へと移動し、各地を制圧し新しい国々を作りだしたのです。ヴェルディの歌劇「アッティラ」などがフン族の王アッティラを主人公とした題材によるものであります。アッティラは452年にローマに攻め入ったが阻止されました。その時のローマのレオ一世とアッティラの会見の様子がバチカンのラファエロの間に描かれています。 スイスの一帯もゲルマン民族がどんどん侵入してきました。ローマはアヴァンシュやチューリッヒ、ソロトゥルンなどに皇帝の命により城砦が作られました。こうした中、西から東ゲルマン人の一族である西ゴート族がローマに攻め入り、本拠であるローマ防衛のためにスイスのローマ軍は全部引き揚げてしまい、以降、スイスの一帯からローマは完全に手を引いてしまうことになります。しかし、司教区とキリスト教会は残されました。 476年に西ローマ帝国が滅び、スイスは侵入してきたゲルマン民族によりいくつかのエリアに分かちます。 ラエティア(現在のグラウビュンデン地方)は西ローマ帝国の名目上の後継者である東ゴート王国へ支配が移りました。 この東ゴート王国は現在の東スイスを支配していましたが、526年に国王テオドシックが亡くなると衰退し、アレマン人が移住しはじめ、中央スイスのアーレ川付近まで進出してきました。アレマン人はフランク王国のもとアレマン公国を築きましたが、キリスト教よりも古い習慣、信教を保持していました。アイルランドの修道士たちによる布教によりキリスト教化していくのは590年頃のことで、この時の修道士のガルスの庵のあと、八世紀になってザンクト・ガレンの修道院が建設され、近くのコンスタンツにも司教座がおかれ、キリスト教が大変深く浸透していきました。 413年までにライン河中流域にブルグンド人による王国が作られましたが。これはローマがフン族を利用してサヴォアの一帯(今日のフランス語エリア)に移住させました。そしてここにもう一度ブルグンド王国を作りました。これはゴートの攻撃からローマを守らせる目的があったのですが、その西ローマ帝国滅亡の後、ブルグント王国は完全に独立した王国となります。しかしもともとのブルグント族はもはや多くは残っておらず、独特のアウリスの教えなどを信じていたブルグント族はローマ・カトリックに吸収され、ゲルマンの言葉も失われフランス語が主力となっていきます。 アルプス南側の渓谷一帯は、元々クールの司教に支配され、西ローマ帝国の滅亡の後もほぼ大きな変化は無かったのですが、ゲルマンの一族、ランゴバルド族が568年頃から侵入をはじめ、590年頃にはベリンツォーナに国境要塞を作り上げ、ラエティアはクールからミラノ、コモの司教区に編入されました。 800年頃にはほぼアルプスの南側一帯はロンバルディアの方言を話すイタリア語の地帯となりました。 ブルグンド族はフランス語を話し、ヴォー地方からヴァリスを支配し、アレマン族は今日のドイツ語圏となる中央スイスから東部、北部を支配していました。またラエティアの一帯はラテン語の方言の一つと言われるロマンシュ語が深い谷に遮られ残されていきました。これが、スイスの言語国境を作りだしています。 |
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