スイスの歴史

はじめに

 スイスの地図を拡げてみると、三日月の形をした多くの湖があります。大きなものではレマン湖やボーデン湖といった国境の湖もそうですが、トゥーン湖やブリエンツ湖、チューリッヒ湖やツーク湖、ビール湖等々、もう数限りなくあります。これらの湖水は全て氷河の跡です。一万年前の氷河期にスイスは一面を氷河に覆われ、ローヌ氷河はその厚さが一五〇〇メートルにも達したと言われています。この氷河が削り取っていったあとには、ロクに作物も育たない痩せた土地が残されました。何度も地球を襲った氷河期によって出来たこれらの湖水は、スイスの表面の土地がいかに長く氷河によって削られたかを物語っています。
 更にスイスの国土の約六割がアルプス地帯であることも忘れてはならない特徴であります。マッターホルンやユングフラウ、モンテローザ、ドーム、ヴァイスホルン、アイガー、ビーチホルン、なんとスイスには四千メートル級の山が40座以上あるのです。我々のような旅行者にとっては美しいその風景も、何かを産み出すわけではなく、苛烈な状況をスイスの人たちに与えたに過ぎないのです。
 スイスが観光で豊かになっていくのはせいぜいこの百五十年のことであります。経済的に豊かな大英帝国の紳士たちによるスポーツとしてのアルプス登山が活性化した十九世紀。ウィンパーによるマッターホルン登頂をクライマックスとしての第一次黄金時代の後、各国に広がっていった登山にかける人々の関心と、中世の山を畏怖の対象として見る思想から自然科学と自然崇拝の思想の流布の結果として、スイスアルプスが何も産み出さない過酷な地域から、世界中の観光客がお金を運んでくる土地に変化していった経緯を理解しなければ、この国の文化の理解など、決して不可能であると断言できます。
 スイスの産業の代表的なものは、ジュラの時計であり、バーゼルの薬品、チューリッヒの銀行・金融、ザンクトガレンの刺繍、これらの特徴は農業でもなく、重工業とも一切関連しない、小さく、頭脳とわずかな原材料でできるということであります。それは逆に言えば、原材料が手に入りにくく、また大きなものでは輸送コストが高く付きすぎてなりたたないということを意味しています。それで、小さく、付加価値の高いものに向かったと言えましょう。
 スイスは永世中立の平和な国という印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。しかし、スイスは国民皆兵の国で、成人男子は全て家に自動小銃を持ち、いつでも使えるようにしていなければならないという義務をもっていること。それは、スイスのアルプス地方の小さな家族経営のペンションにも家族の押し入れには自動小銃があり、当然使える状態であるのです。
 のどかなベルナー・オーバーラント地方のインターラーケンからグリンデルワルドに向かう途中、空港があります。「あれっ」と思う人もいるかも知れません。ここにはスイス空軍の基地があるのです。当然地図にはのっていませんが。
 スイスアルプスのいくつもの嶺には、巧妙にかくされた基地があり、スイス軍兵士が常駐しているということなのです。平和というものに対する感覚が、スイスの人々と我々日本人とは、全く違うということを理解しておく必要があるでしょう。
 かつて、ナチス・ドイツの第三帝国の時代にもスイスは中立を守りました。しかし、それは大変な努力の結果であることを知らなくてはなりません。スイスにはユダヤ系の多くの人々が逃げて来ていました。しかし、スイスはナチス・ドイツとも連合国ともムッソリーニのイタリアとも国交を維持していたのです。したがって、スイスの銀行にはナチスの金とユダヤの金があり、鉄道はナチスの貨車も連合国の貨車もムッソリーニのイタリアの貨車もスイスを通っていました。今の日本では考えられない話でしょう。
 スイスの中にはナチスと通じるものも、連合国と通じるものもいました。また政治的には、明確にナチスとは一線を画し、救国の英雄と言われたアンリ・ギザン将軍のリュトリでの演説に象徴されるように、スイスはナチスに対して戦争をも辞さない姿勢で、国を守り通したのであります。
何故そうだったのか、どうしてそれができたのか、あるいはしなくてはならなかったのか、それはスイスがヨーロッパの中心にあたり、ドイツからイタリアに行く際に必ず通る峠、フランスからローマに向かうとき、逆にローマからフランスに向かうとき、必ず通らなくてはならない峠がそこにあったからなのです。シーザーが通ったサンベルナルディーノ、ナポレオンが作ったシンプロン峠、そしてゴットハルト峠、これらの峠は、枢軸国にとってどれだけ重要であったことでしょう。交易、軍事、これらは表裏一体であり、古くシーザーの時代からスイスはこの地理的な条件を引き受けなくてはならない立場であったのです。
 だから、スイスは中立でなくてはならなかったのです。中世の頃よりハプスブルクの人々がこのスイスに執着したことか。それはこの権謀術数に長けた人々がこの峠の権利を手中にすることの政治的意味の大きさを極めて正確に理解していたことの証左でありました。
犬養道子女史がその著書の中で語ったようにまさしくスイスは「峠の颪の申し子」であったと言えます。