チューリッヒ近郊ラーヘン生まれの作曲家ラフ

 チューリッヒ湖畔の町、ラーヘンに生まれたヨアヒム・ラフという作曲家は、ほとんど知られておりませんが、私も最近まで、ドイツの作曲家だと思っていました。音楽の_社から出ている新音楽辞典の人名編でも、「ドイツの作曲家、ラーヘンに生まれ…その後スイスに移りチューリッヒで学び…」と書かれているので、原書を読んだりという手間なことが大嫌いなモノグサな私としては、もう「ドイツの作曲家」だとばかり思っていたのです。
 それに、同じ出版社から出ているガイドブック音楽と美術の旅のシリーズのスイスの項でもも全く無視されています。
 音楽辞典まで不確かなのですから、カヴァティーナで有名なだけのラフを、スイスの作曲家と知る人は、かなりの音楽通でしょうね。(このことをメールで教えて下さった方がいらっしゃって、本当にHPを作って良かったと思っています)

 さて、前置きはともかく一八二二年にスイスのチューリッヒ湖畔に生まれたラフは、ほとんど独学で音楽を勉強し、メンデルスゾーンに作品を送って認められ、出版社に紹介されることになって音楽家として生きる決心をしたようです。小さなピアノの小品だったそうですが、名門のブライトコップフから出版されることになったことがその音楽家への決心を後押ししたことは間違いないようです。
 この頃彼はラッパースヴィルで学校の教師をしておりました。

 それでも、音楽家となって生きるというのは、当時のスイスではとんでもなく大変だったようで、生活苦と戦いながらの作曲の勉強だったようです。苦学したようですねぇ。スイスそのものがまだ貧しかった時代の話ですからね。

 一八四五年、二三才の時にバーゼルでピアノの巨人、フランツ・リストに会い、彼のコンサート・ツアーに同行したりしています。そしてドイツのシュトゥットガルトでハンス・フォン・ビューローに会い、後にワイマールでリストの助手というか、作品の管弦楽化(オーケストレーション)を手伝ったりしています。
 このあたりの人名は、他でも随分触れたので、その複雑な人間関係がわかると、更に面白いと思いますがね。

 さて、ラフがワイマールに赴いたのが一八五〇年で、リストが創始したとされる交響詩が、数多く作られたり、改編れさたりしている時期とかさなりますので、その代表作といわれる作品のオーケストレーションはリストではなく、ラフによるものかも知れません。有名なハンガリー狂詩曲は別の弟子のドップラーとやっていますから、リストはあの膨大な作品群の陰で、実際に手間のかかる仕事を分業化してやっていたらしいのです。
 これは、別に珍しいことではなく、最近の売れっ子作曲家で、時々テレビに出ているいつぞやベスト・ドレッサー賞なんぞをもらった人などは、かなりの部分をアシスタントに作らせてますしねぇ。知り合いのそのアシスタントをやっていた人の話では、「あそこまで来るとほとんど僕の曲だよ」と言ってましたが、そこまでリストの場合、ひどいとは思いませんがね。
 他にはドビュッシーなどもよく弟子にオーケストレーションをやらせていましたね。でも彼の場合はちゃんと編曲者名を明記していますから、わかりやすいのですが、リストの場合は、まだまじめに研究が管弦楽作品まで進んでいないので、よくわからないところが多いのです。
 でも、演奏家としてのも、大変多忙であったと思われるリストがあんなに膨大な作品を作れたのも、そういったラフやドップラーといった有能なアシストがあってのことでしょうね。
 とは言え、リストの管弦楽法に欠点があったわけでは決してありません。実に卓越した管弦楽に対する能力も持っていたことはまぎれもありません。(念のため)

 この後、ヴィスバーデンに移り、ピアノ教師をしながら作曲に専念し、一八七七年、フランクフルトのホーホ音楽院の院長となって、亡くなるまでその職にあったそうです。
 活躍の多くの舞台はドイツでした。確かに、一九世紀半ばのスイスでは、作曲で食べていくのは至難のことであったのでしょう。ルツェルンで活躍した交響曲作曲家シュタルダーやその後を受けてロマン派の交響曲作曲家のヴァルテンゼーといった人たちがいますが、マイナー過ぎて、あまり聞く機会もないままにいます。そのうちに聞いて、ここでレポートしたいと思います。

 ヨアヒム・ラフは十一曲の交響曲をはじめとしてピアノ曲、室内楽曲などに多くの作品を残しています。
 作風をサロン音楽風で軽い深みのないものと評する傾向があるようですが、私もそう「良い聞き手でなかったので、批判するだけの知識と経験に欠けますが、ちょっと「カヴァティーナ」の印象だけで言い過ぎているようにも思えます。