スイスに関する本の紹介 その十五

 故山際淳司氏の遺作となった「みんな山が好きだった」(中公文庫刊)を読みました。あまりに素晴らしいのでここに載せようと考えた次第です。
 今日、朝のニュースでマッターホルンで日本人二人滑落死の報が流されていた。どういう状況で滑落したのかは不明なのでコメントはできませんが、あの素晴らしい山もいくつかのバリエーションルートがありますし、ノーマルルートですら、多くの遭難者を出していますから、決してやさしい山とは言えますまい。
 この夏は18人の遭難者をスイスアルプスは出しているそうです。しかし、こういう交通事故(それも亡くなられた方のご家族の方にとっては大変なことでしょうが…)の数字をだすように言われても、空しいだけに感じてしまいます
 山での遭難を美化する気は私には毛頭ありません。しかし、常識人らしいコメントがアルピニストの生き様を何一つ語ってはいないように、私には思えてなりません。交通事故の統計から事故に遭われた人が見えてこないように、山での遭難者の統計からもその登山家の山への憧憬、情熱、愛情と言ったものが、見えてこないのもまた事実であります。
 私のように、登山家ではない単なる山好きの人間にとっては、山での遭難などということは想像の世界でしかありません。しかし、今回そうした登山家たちの世界を素晴らしい文章で、彼らの生と死を紹介してくれた山際氏の一冊は、私にとって素晴らしい体験でありました。
 山際氏は、人間には誰でも弱点があり、それを追及することより、良い面をいかに正しく伝えるかということに多くを費やしているようです。そしてそれが山の気高さ、大伽藍の圧倒的なスケールに魅入られた人々を善意に満ちた文章で表現することになったのではないでしょうか。
 加藤保男、森田勝、長谷川恒夫、芳野満彦、松濤明、エベレスト登山隊のウィルソン、アイガーを登ったヘルマン・ブールに新田次郎の「孤高の人」のモデルとなった加藤文太郎・・・山好きの方なら知らぬ者のいない人たちばかりです。他にもたくさんたくさん。
 第一章 一瞬の生のきらめき
 第二章 ザイルのトップは譲れない
 第三章 未知の世界に向かって
 第四章 山を愛し山に死んだ
 第五章 夜明けの美しさのために
 第六章 孤高の人生をめざして
 第七章 いくつか越える山のために
 これらの中で山際氏は、山に登るということを深く見つめていくのです。登山家が書いた登山記録でない登山の本。しかし、クライマーたちの世界を深く理解し、敬い、愛情を持って書かれた山際氏の文章からは、単なるクライマーの紹介という世界を遥かに突き抜けたものでありました。
 それは、登山における死をドキュメントしているのではありません。おそらくその面で言えば肩透かしを食うと言っても良いでしょう。別に壮絶な死を描こうとしたのではなく(この本を書いている時既に山際氏は癌を患い、死と対面していたという重い事実に心を至らすべきです)登山家たちが自身の弱さ、コンプレックスを克服しようと、自分を磨く過程を、そしてその人生をも描こうとしていると思われます。
 死を描くことではなく、そこからしなやかな感性を持つナイーブな登山家の人生観を描いていると思います。だから、この本は多くの人の支持を得たのでしょう。