スイスに関する本の紹介 その九

 まず、ウィンパーの「アルプス登攀記」(浦松佐美太郎訳)上下巻を紹介しましょう。この本は、第一回でも触れていたのですが、これほどの名作に対して、無礼なほど簡単にふれただけであったので、もう一度ここにとりあげておきたいと思います。
 訳も何種類かあるようで、私も二種類持っていますが、やはり日本の登山界の大立者のひとりである浦松佐美太郎氏の訳で読むのがベストでありましょう。(岩波文庫)
 マッターホルンの初登攀の物語(成功とその後の悲劇は特に有名)だけに留まらず、エクランの初登攀やツィナールの奥の美しいグラン・コルニエの初登攀のこと、更にグランド・ジョラス初登攀からエギーユ・ヴェルト(ヴェルト針峰)の初登攀などなども語られており、更によく読んでいくと、ゲンミ峠のシュバーレン・バッハのホテルのことなどが出てきて、ああこの時代からあったのだ、とちょっと驚いてしまったりもします。
 アルプスの十九世紀における黄金時代を、見事に描いたこの本が、佐貫亦男氏をして数ある登攀記の中で、辻村伊助の「スウィス日記」とともに何度も読み返すにたる書物としてあげられていることも肯けます。
 スイスに行かれる方、特にアルプス地方に行かれる方は、ぜひ読んでから行かれると、その楽しさは数倍にも広がることでしょう。

 ウィンパーらの黄金時代が終わった後、ヨーロッパ・アルプスにはほとんど未踏の山は残っていませんでした。したがってアルプス登山は更に困難なルート、エキストラ・ルートの開発に向かったのです。アルピニスト達の課題は、マッターホルンやグランド・ジョラス、アイガーといった峰の北壁登攀になったいったのです。
 そういった世代を代表して、トニー・ヒーベラーの著作の中から「冬のアイガー北壁初登攀」(横川文雄訳、ベースボール・マガジン社)を紹介しておきたいと思います。この本も第一回でふれていたのですが、あまりに簡潔にしすぎたという反省で、第一回を改訂いて、改めてここに紹介する次第です。
 アイガー北壁の登攀については、多くの著作がありますが、後で紹介する今井通子女史の「私の北壁」などと共に、最も優れた登攀記の一つであろうと思われます。

 よく言われるように、ウィンパーらの時代、アルプスの初登頂時代から、時代はより困難なルート、困難な季節の登攀へと、明確に転換し、スポーツ登山全盛の時代となり、その最後の課題が、ウィンパーの時代のマッターホルンのように、アイガー北壁冬季登攀だったのです。
 センセーショナルであったこの冬季北壁初登攀の最初から全てに関わることを記録した本書は、それに関わったクライネシャイデックのホテルの主人、アルメン氏のことなどから実に当時のアイガー北壁を巡る事情をよく伝えていると考えます。
 そして実に入念な準備の上での初登攀成功であったことを本書は語っていますが、このような近代登山の歴史の上に日本人によるアイガー北壁直登ルートの成功があったのです。

 今井通子女史の「私の北壁」「続私の北壁」(朝日文庫)は残念ながら絶版で、図書館か古本屋で探すしかなくなっていますが、この本などは今井通子女史がいかにして山に親しみ、いかにしてトレーニングし、ヨーロッパのマッターホルンやグランド・ジョラス、アイガーの北壁に挑み、一つ一つ頂上を極めていった過程が、何の衒いもなく、率直な文章で語られています。
 解説も豪華で、「私の北壁」が近藤等氏、「続私の北壁」が佐貫亦男氏です。このことからだけでも、いかにこの本が日本の登山の歴史で大きな位置をしめるかわかっていただけるのではないかと思います。
 佐貫氏も触れておられますが、完成したクライマーの手柄話ではなく、今井通子女史が父親に連れられて山に親しんでいった過程、そして大学山岳会の時の「遭難」を心配する家族との葛藤、女性故の登山への世間の蔑視の目、ロック・クライミングへの開眼から、それをマスターするための努力、そして、日本アルプスで色んなトレーニングをつんでのヨーロッパ遠征。そこに至る苦労や失敗といったことなども語られる本書は、私のように山の中腹あたりをウロウロしているだけの人間でもハラハラドキドキで一気に読ませるだけの勢いがあります。
 実際、スイスでは今井通子と言えば、本当に有名な日本人なのだそうで、山に関心のあるスイス人ならだれもが知っている日本人であるそうです。その今井通子女史を知らない日本人というのは、ちょっと恥ずかしいですね。
 ミューレンのシルトホルンに登るロープウェイ駅の入り口左手に、アイガーに登る今井通子女史の写真が展示されています。アイガー直登の時のものです。
 あそこを通る度、日本人として少々誇らしい気持ちにさせてくれます。自分の手柄でもないので、こんな風に書くとちょつと気恥ずかしいのですがね。
 しかし、多くの日本人観光客は、それがとういうものかも知らず、そこを通り過ぎていきますが、大変残念なことです。
 できたら、スイスに行く前に読んでおくといい本として、ぜひ推薦したい一冊なのですが、ああ絶版とはなんとも悲しいことです。