スイスに移住してきた指揮者たち
(1)スイスで活躍した指揮者
 スイスに移住してきた大音楽家として、まずベートーヴェンの解釈で一時代を築いたフェリックス・ワインガルトナーをあげたいと思います。彼はバーゼルを本拠地として多くの音楽家を育てたのです。1863年に旧オーストリアのダルマチアのザーラで生まれ、グラーツとライプツィヒで学んだ後、ワイマールでリストに師事したこの音楽家は1908年から1927年までウィーン・フィルの常任指揮者でもありました。1937年には来日していて、当時の新響を振っています。
 とりわけベートーヴェンやブラームスの指揮で一世を風靡した指揮者でありました。最近新星堂から集大成したCDが出て、再評価の機運が盛り上がったところであります。
 このワインガルトナーのもとからザッヒャー、そしてアンセルメが出てきたのですから、スイス音楽界に果たした役割は大変大きなものであったと言えましょう。

 アンセルメの後任としてスイス・ロマンド管の音楽監督となった
パウル・クレツキは、1900年3月21日にポーランド中部のウッジに生まれたポーランド人の指揮者ですが、留学したベルリンで作曲家として活動。後にスイスで亡くなったクーレンカンプに自作のヴァイオリン協奏曲の初演をしてもらったほどの逸材だったそうです。残念ながら彼の作曲したものを私は聞いたことがないのですが…。
 しかしナチスの出現によりドイツを離れ、ミラノで作曲の教授をした後、1938年にスイスに移住。1947年にスイスの市民権を得ました。
 1965年から翌年の間ベルン交響楽団の指揮をしていたのですが、アンセルメの辞任したスイス・ロマンド管の指揮者として迎えられるという(幸運か不運かわからないのですが)こととなったのです。
 クレツキはアンセルメとともに来日をしていますが、評判は良くなかったようです。前任者のあまりの影響の大きさに、やや過小評価されたのでしょうか。
 彼がスイス・ロマンド管の首席の地位にあったのは1967年から1970年の間で、病気のため辞任。その後はイギリスのリバプール・フィル等を主に指揮していたようです。シュタイン、サヴァリッシュと時代はうつり、1985年よりアルミン・ジョルダンが音楽監督の地位に着いたのです。

 指揮者としてよりヴァイオリン奏者としての方が有名ですが、ティボール・ヴォルガがシオンで音楽院を作り、特別オーケストラを編成して活動していることはよく知られています。彼の名を冠した音楽祭も行われており、コンクール、オーケストラが編成され、ヴォルガやその息子のギルバート・ヴォルガが指揮して活動をしています。確か、財団となっていて、音響のとてもよいホールもあるそうです。
 そうそう、最近の録音でよくここのホールの名前が出ています。室内楽、特に弦を使った編成のCDが多いようです。
 また同様に
ユーディー・メニューインもグシュタートに別荘があることから、音楽祭が営まれ、更に音楽学校が出来、そこでオーケストラを組織し活動しているのも有名です。多くの若手、新人がここから送りだされました。その時にはメニューインが指揮をし、メニューインが第二ヴァイオリンソロを弾き、様々なバックアップをしてあげていることはとても有名であります。
 メニューインは晩年指揮者としての活動にウェイトがおかれていました。しかし、それはボランティアとして、あるいは人道的な見地からおこなうものがほとんどであったと聞きます。
 カザルスと並び、私はメニューインの世界に対してその残した足跡の大きさで、おそらく永遠に記憶されるのではないでしょうか。

 更に、
ウィルヘルム・フルトヴェングラーこそがスイスに亡命してきた、あるいは移住して来た指揮者、音楽家の中でも最大の存在でありましょう。クラランの村で、彼は戦後の演奏活動禁止という明らかな冤罪を被り失意の中で暮らしていたのです。
 フルトヴェングラーとスイスの関係は、決して浅いものではありませんでした。デビュー直後の頃からチューリッヒに客演し、バーゼル、ヴィンタートゥーア、チューリッヒ、ベルン、スイス・ロマンド管といった主要なスイスのオケに客演を続け、戦後、ルツェルン音楽祭が再開した後は、毎年出かけ、指揮をし続けたのです。
 多くの若手の音楽家を助け(まぁ、ライバルとされたカラヤンとの例なども一部にはありますが)スイスに腰を落ち着けていたフルトヴェングラーについて、その晩年を見守ったクラランの村の風景とともに忘れるわけにはいかないのです。

 
ルドルフ・ケンペは移住していたかどうか不明ですが、1976年5月12日にチューリッヒで亡くなったことからここにとりあげました。
 1965年にチューリッヒ・トーンハレ管の音楽監督となったケンぺは、その実直で完璧なまでのジェントルマン振りで、そし情熱に満ちた素晴らしい演奏の数々に一時代を築いたスター指揮者でありました。ビーチャムのたっての願いでロイヤルフィルをビーチャムと共に指揮をし、ビーチャムの死後は首席指揮者に就任。ケンぺがあんなに早く亡くならなければ、1975年にケンぺが辞任しなければ70年代後半から1980年代にかけてのロイヤル・フィルのあれ程の低迷は無かったでありましょう。バイロイトでのキャリアも忘れてはなりませんが、ミュンヘン・フィルとの密接な関係、そこでのベートーヴェンの交響曲全集、ブラームスの交響曲全集、ブルックナーの交響曲のいくつかは、名演中の名演でありました。ドレスデンのオケとのリヒャルト・シュトラウスの管弦楽全集など忘れられない記念碑的名盤を数多く残しました。
 しかし、チューリッヒトーンハレとの長い付きあいの中で、あまり多くの録音が残されていないようなのは、実に残念なことでありますが、チューダー・レーベルに神懸かりとしか思えないような超名演のブルックナーの交響曲第八番や、ベートーヴェンの「運命」、ドヴォルザークの「新世界」といった演奏が最近再発売されました。クラシック音楽ファンの方々にはぜひ1度聞いておいてほしい演奏です。彼は1976年に亡くなりましたが、確か亡くなるまでチューリッヒトーンハレ管の音楽監督の地位にあったと記憶しています。

 ケンペムの前任となる指揮者にもチューリッヒ・トーンハレ管は知られざる巨匠が振っています。南西ドイツ放送響の音楽監督にしてドナウ・エッシンゲン音楽祭の音楽監督として名高い
ハンス・ロスバウトという指揮者も確かスイス国籍を取得していて、亡くなったのはルガーノだったと思いますが、彼は1957年から1962年の間、チューリッヒ・トーンハレ管の音楽監督の任にあり、その後も密接な関係を保ちました。トーンハレ100周年記念CDの中にスイスの作曲家シェックのオケ付きの歌曲Op.66の録音が入っていましたっけ…。1962年にルガーノで亡くなりましたが、今もその録音が売られているところにこの名指揮者の大きな足跡を感じさせずにはおられません。

 次に
ヘルマン・シェルヘンについて。
 シェルヘンは1891年ドイツはベルリンに生まれています。彼はほぼ独学で音楽を勉強した、稀有の存在でもあります。もともとはヴィオラ奏者として活動を開始し、ベルリン・フィルでもヴィオラの団員であつたこともあります。しかし彼は多くの音楽雑誌を刊行して現代音楽の普及に努め、ナチの台頭に伴ってスイスへ移住後も同時代の音楽の擁護者としての姿勢は一貫していました。 シェルヘンはスイス移住後、ヴィンタートゥーア管とバーゼル放送管、スイス・イタリア語放送管といったオーケストラをトレーニングし育てました。更に、彼の信条であった現代音楽の育成の為、1954年にグラヴェザーノに電子音楽スタジオを作り、マデルナ、ルイジ・ノーノなどの作曲家の活動を助けました。スイスの作曲家として独特の活動を続けるロルフ・リーバーマンも彼の弟子です。彼とフォーゲルに師事したあと、出世作となった「フリオーソ」を1947年にダルムシュタットでシェルヘンが指揮して成功をおさめたのです。
 シェルヘンはウィーン楽派のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンなども積極的にとりあげました。ベルクの傑作にして白鳥の歌となったヴァイオリン協奏曲をはじめ、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」等彼の手によって世に音として送りだされた傑作は数知れないほどです。
 また「指揮教本」を残していることからもわかるように、多くの若い音楽家を指導し、東京芸大で一時教えていた指揮者フランシス・トラヴィスやセントルイス響の指揮者をしていたハンス・フォンク、メトやウィーン国立歌劇場等でのオペラ指揮て名高いイタリアの指揮者マジーニ、先にも触れた天才作曲家にして指揮者のマデルナといった人たちがいます。

 
フランシス・トラヴィスはスイスに1948年に移り住んだ指揮者で、元々はアメリカはデトロイトの出身です。1921年7月9日に生まれ、ミシガン州立大学でフルートとピアノを学んだという人です。スイスに移り住んでからは前項のシェルヘンに個人的に師事し、チューリッヒの大学でヒンデミットに作曲を学びました。
 その後1958年にドイツで、ハンブルク・カンマー・ゾリステンを結成し、1962年からはバーゼル市立歌劇場の指揮者となり、1965年にドイツのフライブルク音楽大学の教授となっています。
 私は彼の演奏でヨアヒム・ラフの交響曲第10番「秋」を所持し、愛聴していますが、バーゼル放送響を振ったこの演奏は極めて優れたもので、彼の代表盤とするにやぶさかではありません。また、朝鮮の大作曲家、イサン・ユンの「洛陽」を朝鮮民主主義人民共和国のオーケストラを振ったものもありますが、こちらは残念ながら未だ聴いておりません。イサン・ユンという素晴らしい現代の作曲家を振っているところにシェルヘンの弟子らしいなぁと思いますが、私は買いそびれたままになっています。
 他にイタリアの現代作曲家ペトラッシのCDでスイス・イタリア語放送管を振ったものがELMITAGEから出ていて、これなどは比較的簡単に手に入れることができそうです。「四つの聖なる歌」と"Noche Oscura"を振っていますが、大変引き締まったいい指揮をする人だと思います。(ついでながら大御所レーラーの現代音楽の演奏が聞けるのもこのCDです。ELMITAGE/ERM145)

 ところで、
カール・シューリヒトがスイスの市民権を持っていたことはあまり知られていませんが、このウィーン・フィルから愛された名指揮者はハスキルの隣人であったことは、知っておいてソンは(得も)無いことでしょう。
 ということはフルトヴェングラーも近くに住んでいたわけでして、その近くに名ピアニストですこーしだけ指揮もするアルフレッド・コルトーも住んでいたというのは面白いですね。
 しかし、スイス・ロマンド管に客演しての名演や、バックハウスと共演したスイス・イタリア語放送管との録音など、スイスでの足跡を残してくれたことは大変ありがたいことであります。

 オットー・アッカーマンはシュワルツコップと録音した「メリーウィドー」が名演として記憶できますが、チューリッヒ・トーンハレ管を指揮したリパッティとのショパンはここまでやる気の無い演奏をするとは、ちょっとヒドイなぁと思います。いくらつまらないオーケストラ・パートだからと言っても…。
 他に「ウィーン気質」「こうもり」の録音をききましたが、私にはあの不誠実な1枚で終わってしまっています。ショパンのスコアが不完全でつまらないものであっても素晴らしいピアノに対してなにも反応しない音楽家を私は許せないのです。アッカーマン・ファンの方(いるのかなぁ?)ゴメンナサイ。
 アッカーマンのスイスでの活動は、ナチスを嫌ってスイスに移住した1936年にベルン歌劇場、1945年にチューリッヒ歌劇場でデビューを飾り、1958年から1960年にチューリッヒ歌劇場の音楽監督を務めました。1960年にヴァーベルンで亡くなりました。