スイス音楽界の大立者達
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スイスの指揮者として多くの人の脳裏に浮かぶのは、エルネスト・アンセルメでありましょう。この巨人はローザンヌ大学で数学と物理を専攻しながら、ユダヤの作曲家プロッホに作曲を師事し、学生オーケストラを指揮していました。パリのソルボンヌ大学に数学を学ぶ為に留学し、母校のローザンヌ大学で教授になったのですが、音楽への思い捨てきれず、ニキシュとワインガルトナーの助言を得、1910年にモントルーでデビューしたという経歴を持っています。 当時スイスに滞在していたストラビンスキーと親交を結び、1918年にはスイス・ロマンド管弦楽団を創設し、1966年に高齢で辞任するまでその地位にあったスイスを代表する名指揮者であります。またストラビンスキーの推薦で1915年から1929年まで、ディアギレフのロシア・バレエ団の指揮者としても活躍し、ストラビンスキーの「兵士の物語」「うぐいす」「プルチネルラ」「きつね」、ファリャの「三角帽子」プロコフィエフの「道化師」サティの「パラード」という今世紀初頭を代表する名作の初演を担当したのでした。 デッカによって、これらの作品をはじめとする録音の数々が残され、多くが今も購入できます。 また同様に、ワインガルトナーの薫陶を受けて指揮者としてスタートしたパウル・ザッヒャーもまた忘れ難いスイスの指揮者でありました。 1906年にバーゼルで生まれたザッヒャーはバーゼル音楽院でワインガルトナーとモーザーに指揮を学びました。1926年に自身で創設したバーゼル室内管弦楽団は、多くの作曲家に新作を委嘱し、名作を数多く世に送りだしたのです。中にはバルトークの「弦・打・チェレスタのための音楽」、オネゲルの交響曲第二番、第四番などがあります。 また、晩年のチェコの作曲家マルティヌーにモ山荘を提供し、故国に帰れず落ち込みがちだった作曲家に心の平安と作曲に専念できる環境を与え、いくつもの傑作を作る機会をもたらしたことも私たちはザッヒャーに感謝しなくてはならない。 リヒャルト・シュトラウスのメタモルフォーゼンの初演も彼であるし、マルタンやオネゲルの主要な作品もほとんどがザッヒャーの手によって初演を行われたのです。 1941年以降はチューリッヒ・コレギウム・ムジクムの指揮者としても活動を開始。またバーゼル・スコラカントゥルムの創設にも一役買って出て、その後バーゼル市立音楽アカデミーとなり、音楽史、現代音楽と幅広い音楽研究の牙城として、ヨーロッパでも最も権威のある学校に育て上げた(ザッヒャーは1954年から69年までそこの校長を勤めたのです)ことも、大きな功績として長く記憶されることでありましょう。 こういった人たちと伍している素晴らしい指揮者がチューリッヒにいます。 エドモン・ド・シュトルツというチューリッヒ生まれの指揮者です。日本ではあまり話題にはなりませんが、自身で組織したチューリッヒ室内管を育て上げた手腕は一流のものであります。 1920年12月18日にチューリッヒで生まれ、チューリッヒ音楽大学で学んだ後ザルツブルクでゼッキ、カラヤン、ウィーンに赴いてクリップスに学んでチューリッヒに戻りました。 チューリッヒ・トーンハレ管のチェロ奏者として音楽活動をはじめた彼は、1945年に同地で室内管弦楽団を組織し、1954年にチューリッヒ室内管弦楽団と改組。1962年にはチューリッヒ・コンツェルトコーア(合唱団)を組織し、スッペのレクイエムなどの名演を残しています。この分野ではザッヒャーと人気を二分する指揮者であったと言えるでしょう。 新作の委嘱、初演も数多く手がけていますが、マルタンの晩年の傑作「ポリプティーク」をメニューインと共に委嘱し初演したことは長く記憶にとどめておきたいことであります。 彼らの演奏でよく知られているのは、フランチェスカッティとのモーツァルトのヴァイオリン協奏曲(ワルターが指揮しなかった三曲)で米コロンビアに録音したのは、スイスのオケとしては初めてのことではなかったかと思います。 またシェーンベルクの「浄められた夜」等の名演もCDで発売されており、もっと知られて良い存在です。ルツェルン音楽祭の常連として知っている人も多いかもしれませんが、1971年に初来日していて、1989年にはニコレとともに来日して評価を高めました。 また、ルガーノにおいて合唱指揮から多くのバッハ以前の音楽の復活につとめた大音楽家エドウィン・レーラーを忘れてはなりません。彼について日本で話題になったことはほとんどないと思われますので、知らない方も多いことでしょう。 1906年にティチーノに生まれた彼はスイス・イタリア放送合唱団を45年にわたり率いてモンテヴェルディを始めとするイタリア・バロック期の音楽を中心に演奏しつづけ、ルガーノ室内楽協会をたちあげ、バロック音楽がまた一般的でなかった時代にそのパイオニアとしての大きな足跡を残しました。スイス・イタリア語放送で仕事を長くした関係から、多くの音楽家と関わってきたことも、1合唱指揮者にとどまらないもう一人のスイス音楽界の大立者としての印象を私に与えます。 多くの名プロジェクトを企画・推進したレーラーでしたが、中でも"Musical Moments in Italian Vocal Polyphony"や"Musical Rarities in Italian Vocal Art"などが記憶されるものでありましょう。 1950年代以降、放送用の膨大な録音が残されていて、彼の足跡がイタリアのNOUVA ERAからEDWIN LOEHRER EDITIONとして多く発売されていることを付記しておきます。1991年、ルガーノにて没。 ロッシーニのミサ曲やぺルゴレージのスターバトマーテルなどの演奏がなかでも御薦めです。 フォルクマール・アンドレーエは音楽ファミリーとして有名ですね。彼の孫のマルク・アンドレーエもまた優れた指揮者で息子は優れたピアニストであったそうであります。 フォルクマール・アンドレーエは1879年ベルンに生まれました。1906年にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の首席指揮者に就任し、1949年までこの地位にあったのですから、絶大な力を持っていたと言って良いのではないでしょうか。1914年から41年までチューリッヒ音楽院の教授も兼任していましたから、多くの後進を育て上げた功績は、多大なものがあると申せましょう。実際、ザッヒャーとともにスイス・ドイツ語圏を代表する指揮者であったといって良いでしょう。ベルリン・フィルやウィーンフィルにも度々客演しており、そうした折りに録音されたCDもいくつか発売されています。 しかし、定評があったとされるブルックナーは私が聞いた4番はテンポが決まらずに揺れまくり、とこに行こうとしているのか全く不明の凡演でした。グルダの初期のデッカへの協奏曲などの共演の方がいい出来で、彼の良いソロの?演奏はまだ聞いたことが無い指揮者の一人です。 |
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