スイスの作曲家たちによるコンツェルタンテ

(揄)瑞西MGB CD6160

パウル・ミュラー=チューリッヒ

 まず、パウル・ミュラー=チューリッヒ(1898〜1993)という作曲家による二つのヴァイオリン、弦楽オーケストラ、チェンバロのための協奏曲 Op.61(1958/59)から紹介したいと思います。
 パウル・ミュラー=チューリッヒは1898年6月19日にチューリッヒで生まれ、チューリッヒ音楽大学で、フォルクマール・アンドレーエやフィリップ・ヤルナッハ等の薫陶を得た今世紀前半から中ごろにかけて特に活躍した作曲家です。
 ロマンティシズムの影響の中から十二音音楽の洗礼をうけ、新古典主義的作風に移っていった作曲家です。世代はちょっと違いますが、ストラヴィンスキーに似ているようにも思えます。
 同時代の前衛的な多くの作曲家達からすると、ミュラー=チューリッヒはあくまで伝統的なサウンドの中に埋没しているかのようにも考えられます。

 戦後のトータル・セリエルからチャンス・オペレーション、ミニマル・ミュージックなどが、彼の音楽にはほとんど影響を及ぼしていないのは、逆に驚異的です。世間がそういった方向にほとんど向いていた時代(というより作曲家たちが、そういった前衛であることで自らのアイデンティティーを主張していた時代=一般聴衆から作曲界が最も遊離した時代)を生きて、独自の音を伝統的な世界で築こうとしていたので
すから。
 私は、ミュラー=チューリッヒの音楽をいくつか聞く中で、あくまで全音音階と半音音階との融合を夢見て、自分の音を追及していった誠実な作曲家の姿が見えて来たように思えます。

 直前に書かれた彼のヴァイオリン協奏曲第二番(1957)は十二音音楽のシステムで書かれていますし、この二つのヴァイオリン、弦楽オーケストラ、チェンバロのための協奏曲は(チェンバロまで動員して)バロック音楽のスタイルで書かれていて、見事に新古典主義的な作風となっています。
 当時、バロック音楽がブームとなっていたこともこの編成を選んだ一因となっていたのかも知れませんが、チェンバロはソリスティックに活躍するのではなく、あくまで通奏低音的な役割に徹しているのがこの種の音楽の中でも面白いところだと思います。プーランクの田園コンセールなどのようにランドフスカらの要請でいくつものチェンバロの協奏曲が近代に生まれましたが、この作品はそれらとは全く別の出生の系
譜を持っているのです。
 リトルネルロ形式で進む第一楽章は、まさにバロック音楽そのものですが、もちろんメロディー、響きなどはミュラー=チューリッヒの他の曲と同じ、無調的ではあるものの、しっかりとした主音を意識した、伝統的な枠組みの中で作っているので、主題なども覚えやすく、近現代の作品の中でも聞きやすい作品に仕上がっていると言えましょう。
 展開の手法も多分に伝統的な手法に依っていて、フーガの応唱のような方法(属調上での繰り返し=カノン的な)や、主題の拡大、縮小などを多用しています。こういったスタイルの作品では当たり前と言えばそうですが、1960年前後に作られた作品としては、大変古典的な手法によったものと思われます。
 二楽章は大変深い情念の音楽となっていて、二本のヴァイオリンが絡み合い、反発しながら、弦オケに促されるようにして、ため息のようなフレーズに束ねられていく様子は、なかなかの聞き応えがあります。
 終楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ。おそらくはジークとして書かれたのではないでしょぅか。対位法の技法を使って、華やかに曲を閉じます。オクターブのダブル・ストップが頻繁に使われるなど、ソロも多分に名妓性を要求した楽章であります。

フーゴ・プフィシュター

 さて、次にはフーゴ・プフィシュター(1914〜1969)のオーボエと室内管弦楽の為の「エーゲ海の日記帳」(1963)です。
 プフィシュターもまたチューリッヒで生まれたスイスの作曲家です。彼は主に独学で作曲を学んで、後にチューリッヒでチェスラウ・マーレクについて音楽理論を修めたのですが、更に42歳になってからパリに赴き、名教師ナディア・ブーランジェについて作曲を、エコール・ノルマルでピアノと指揮を学んでいるのですから、まさに「四十の手習い」だったようです。
 スイスに帰ってからは、1958年頃にチューリッヒ湖畔のキュスナハトに住み、フランス仕込みのメソードで教える傍ら、作曲活動を行っていたのですが、このオーボエと室内管弦楽の為の「エーゲ海の日記帳」はそんなプフィシュターのパリから帰ってからの作品であり、もう晩年の作品でもあるとも言える佳作であります。友人のリコ・シュタインブリュッチェルという人から、ヨット遊びに誘われて行ったエーゲ海の
休暇からインスパイアされて作った作品だそうです。
 新古典主義的な、ポリフォニックな展開を中心に、実にロマンティックに歌い込んでいくといった趣の作風は、そう流行を追いかけるでもなく、むやみに前衛を標榜しようとしない、作曲に対して誠実に向かっていっていると私には見え(聞こえ)ます。
 全曲は九つの小さな断片を繋ぎあわせたもので、それぞれにタイトルがついていて「・・・の地平線」とか「風・・・」とかついているようですが、ドイツ語のみでも何となく想像してみているだけです。今度また「解読」しておくことにしましょう。

 作品はチューリッヒの名手ペーター・フックスのオーボエ独奏、このCDの演奏者であるレート・チュップの指揮カメラータ・チューリッヒの演奏で1964年3月11日に初演されています。
 プフィシュターが亡くなったのは、1969年10月31日だそうですから、わずか55年の生涯でありました。短いと考えるか、まあまあと考えるべきか・・・。でもこの「エーゲ海の日記帳」を聞く限りは、そう有名でない理由はわからないでもないものの、知らずにおくには、ちょっともったいない気がします。

ハンス・シャウブル

 さて最後はクラウビュンデン州の魅力的な山の町、アローザに今世紀初頭に生まれたハンス・シャウブル(1906〜1988)の作った二つのヴァイオリンと弦楽オーケストラのための音楽Op.18です。
 彼は裕福な薬局の息子として生まれ、最初はトローゲン(Trogen)で、後にローザンヌで学びました。そのローザンヌで、シャウブルはアンセルメの指揮するスイス・ロマンド管弦楽団の演奏を聞いて感動。
 このアンセルメの指揮する音楽との出会いが彼に音楽に進む決心をさせたのです。

 しかし、彼はその頃の多くの作曲を志す若者がフランスのパリに向かったのとは違い、1927年から1931年にかけてドイツのライプツィッヒ音楽院で学んでいます。ちなみに、ハンス・シャウブルの前にはオトマール・シェックが同音楽院で学んでいます。
  ライプツィッヒ音楽院ではAdolf Martienssen と Hermann Grabner に学んでおり、彼のドイツに対する愛情はこれらの時を経て、更に育まれていったようです。
 1941年にドイツのスイス侵攻の可能性が薄らいだのを受けて、戦時下のドイツに戻るほどシャウブルはドイツ音楽に心酔していました。
 戦前のドイツで作曲家としての最初の成功を収めたということもあったのでしょう。
 シャウブルがナチスの国家社会主義に親しみを持っていたといことはありませんでしたが、このドイツへの親近感が災いしてか、戦後は、戦前に得ていたような栄光は彼には二度と訪れなかったのです。
 この1935年に作曲された「二つのヴァイオリンと弦楽オーケストラのための音楽」は1937年にはベルリンで出版されていますから、当時のシャウブルがどういった地位にいたかわかると思います。次の大オーケストラの為の交響的音楽Op.22 は1939年、その頃はスイスに移住していたカール・シューリヒトの指揮するベルリン・フィルによって、戦時下のベルリンで初演されています。
 大変なものだったのですね。
 シャウブルのこの「二つのヴァイオリンと弦楽オーケストラのための音楽」は3楽章からなる作品で、第一楽章は全音階的な手法で作られた生き生きとした第一主題とマエストーソの標語を持つ、十二音技法を用いた第二主題からなる楽章。
 第二楽章は緩徐楽章で、一楽章の第二テーマと同じ十二音音列で作られています。大変情緒的な音楽で、短調の響きを思わせる緊張感にあふれた楽章です。
 終楽章の第三楽章は予想通りの "Fast" です。高度な対位法を屈指した楽章で、作者の力量の程が伺える楽章であります。

 馴染みのない作曲家達だからといって、現代物はちょっとといって敬遠しないで、ぜひ一度聞いてほしい一枚です。なかなか面白いものですよ!!