コルボのバッハ四大宗教音楽 その1マタイ受難曲

(国内盤 ERATO/WPCS-10409〜11)

マタイ受難曲の思い出

 昔、私が高校生の頃、ライプツィッヒの聖トーマス教会合唱団のマタイ受難曲の演奏会に行ったことがありました。その日、水泳の授業があり、すっかり疲れていた私は第一部のエヴァンゲリストが出てきた辺りで強烈な睡魔に襲われ、ついに最後の合唱の直前まで熟睡して演奏会を出てきたという醜態を演じてしまいました。バカですね。ロクにマタイの勉強もせずに行ったのですから。

 せめて今程度のこの曲に対する理解があれば・・・と思いますが、まぁそれほど深い聴き方を要求する音楽であるということなのでしょうね。
 その後、懲りることもなく、ミュンヒンガーの廉価盤を購入し、随分この曲を聞きました。世評に高いリヒター盤はまだまだ買えるような身分ではありませんでした。
 大学時代、ひたすらこのミュンヒンガー盤でマタイを聞いていたのですが、その後就職してリヒター盤、カラヤン盤、クレンペラー盤、コルボ盤と聞き、レオンハルト盤で衝撃を受け、更にガーディナー盤のテンポに驚き、シェルヘン盤で歴史を知り、リヒターの先生であるラミン盤やメンゲルベルク盤、あるいはフルトヴェングラー盤で演奏の歴史にも触れることができました。
 で、私が最も好きなのは、結局リヒター盤(旧盤)です。彼のVHD盤もなかなか捨てがたい出来でありますし、ガーディナーやレオンハルト盤、更には鈴木盤にも心は強く惹かれるのです。

 最近、私の好きなコルボによるバッハ四大宗教音楽がエラートから再発され、かつてそう強い印象を受けなかった彼のバッハを再びCDで聞き返すことになり、まず最も好きなマタイ受難曲から聞いてみました。
 比較盤として、最新盤の鈴木雅明盤とリヒターの旧盤を中心として色々と聞き比べてみました。

 まず全体の印象から

 コルボ盤では、何と言っても合唱の素晴らしさがクローズアップされます。手兵のローザンヌ声楽アンサンブルとシオンのノートルダム・ド・シオン教会少年聖歌隊の合唱のピッチの良さ、アンサンブルの良さは当然としても、響きのなんともいえない優しさ!!。あの不滅の名盤、フォーレのレクイエムのコルボ・トーンがここでも健在であることは大きな喜びでありました。ヨッフム盤のように禁欲的すぎず、大きな身振りではなく、静かな動きの中にも無限の変化があるかのようです。
 古楽器による横に流れるラインを強調した最近の多くの演奏と違い、響きの美しさで聞かせるのが、コルボ盤であります。したがって、コルボは古楽器的な発想すら取り上げていません。ローザンヌ室内管弦楽団は現代楽器のオーケストラであり、弦楽器を始めヴィブラートを使った現代奏法による演奏であるのです。
 鈴木盤は古楽器によるオーケストラであり、合唱も含めてヴィブラートを極力排し、ポリフォニックな躍動感に焦点が当てられいます。したがってコルボ盤やリヒター盤よりも、はるかに立体的に受難の物語が進行していきます。このヴィブラートを使わないということは、歌い手にも管弦楽にもピッチに対する極めて正確な演奏を要求する方法なのですが、鈴木盤は当然実に見事な演奏で応えています。
 さて、リヒターの演奏はこの対極にあるようです。合唱の見事さ、アンサンブルの厳粛さは特筆されるべきものであります。冒頭から息を飲むような緊迫感がみなぎり、大きなフレーズを描くリヒターの指揮は、さすが歴史的名盤の名に恥じないものと言えます。この全編にみなぎる緊張感はリヒター盤から最も強く感じられるもので、コルボの何気ない雰囲気から次第に全体へと視野が広がっていくような趣とは、明らかに好対照となっています。

 この三つの盤の独唱陣はほぼ満足のいく出来です。特にリヒター盤のエヴァンゲリスト、ヘフリガーとコルボ盤の同じくエヴァンゲリストのエクウィルツは共にベストの出来でありますし、鈴木盤のトゥルクもまた抑制の効いた最近の盤の中でも傑出していると思います。
 コルボ盤のソプラノのマーシャルのドイツ語発音が悪いとよく指摘されるのですが、ドイツ語のわからない私には余り影響が無くいい歌だなぁと感心していますし、同盤のアルトのワトキンソンは文句無しに素晴らしいのではないでしょうか。彼女の歌った「懺悔と後悔の思いで」というベタニヤの塗油の場面でのレチタティーヴォとアリアやシオンの娘の嘆きの歌唱は、その深い情感をたたえたエモーショナルなことで、これらの曲の最高の演奏のひとつではないでしょうか?
 コルボ盤のイエスを歌うファウルシュティシュは、全体に地味でもう少し前に出てきてもいいかなと思わないでもありません。しかし鈴木盤のコーイは万全の出来と申せましょう。リヒター盤のエンゲンは、ちょっと私には厳しすぎて、もう少し人間的な面を見せて欲しいというか、ちょっと息苦しくなるほどの折り目正しさで際だっています。
 イエス役ではちょっとコルボ盤は落ちるかな?といったところでしょうか。
 バスのアリアではリヒター盤のフィッシャー=ディスカウは当然素晴らしいのですが、コルボ盤のフッテンロッハーもやや地味な印象をうけますが、好演していると思います。

 コルボ盤の淡々とした開始部は、他のやや物々しいマタイの演奏を聞いてきた者としては少々拍子抜けするほどでありますが、この語り口が曲が進むにつれて生きて来るのです。物語自体が語り始めるとでもいうのでしょうか。そんな調子でエヴァンゲリストにより物語が進み、イエスが優しさ、あるいは慈愛を持って語るのです。
 対して鈴木盤は古楽器によっていることもありますが、リズムが活き活きとしていて躍動感のある演奏という印象を第一曲から強く与えられます。古楽器ですから、当然ヴィブラートはほとんど無く、楽器演奏も合唱もよりピッチの正確さを要求される中、見事な歌唱を実現しています。
 リヒター盤は全体にコルボや鈴木の演奏に対して遅めの古くからのテンポに近い演奏であります。しかし、フルトヴェングラーの演奏のように、音楽的な力はこれが最も強く、第二部の後半のややドラマ的に停滞するところでもエンディングに向けての強い意志でグイグイ聴く者を引っ張って行ってくれるのは、やはりさすがだと思います。鈴木盤もこのあたりになるとリズムの躍動感だけではどうしても引っ張っていくことができず、やや緊張感が途切れてしまうのですが、この点コルボ盤は、極めて瞑想的に捉えているように思えます。

  第一部

 
 試しに第15曲と第17曲に配された有名なゲールハルトとハスラーの旋律による受難コラールを聴き比べてみましょう。両方とも同じコラール旋律によっていて、マタイ受難曲の中で五回ほど出てきますが、この第一部の真ん中あたりで初めて歌われます。間にイエスのペテロに対する「否認の予言」のレチタティーヴォが挟まれ、半音低く第17曲で少し内声の動きを加えたアレンジで再現するのです。
 コルポは、この対となった部分を前者を深い祈りとして捉え、より静謐な表現をとり、後者の「私はここであなたのの御許に踏みとどまります」では、より強い決意の方を中心に捉えて、明確な対比をつけて演奏しています。
 しかし、リヒター盤は強烈に強い表現で「私を知って下さい、私の守り手よ」と主に向かって強く呼びかけるような演奏で第15曲を解釈、そして「つまづき」のレチタティーヴォの後の半音下げて同じコラールは、やや沈んでレガート気味に歌い、重心をコルボとは逆に第15曲の方に置いた演奏となっています。
 鈴木盤は、このどちらとも違い、特に大きな対比をここに置いてはいないようで、あえて淡々とした歩みで演奏を進めます。

  ゲッセマネの園の祈り

 更に第一部の最後の場面。ゲッセマネの園の祈りの場面のコルボを演奏についていくつか述べてみたいと思います。
 まず、第25曲「神の御心がいつも行われますように」ですが、イエスの受難を受け入れる決意に対しての希望に満ちた共感がこのコラールで歌いあげられるのですが、コルボは内声の動きを特に際だたせることなく見事なバランス感で表現しています。
 更に第27曲の「イエスの捕縛」から一部の終わりに至る前半のクライマックスを聞いてみて下さい。バスを抜いた支えの無い、何とも頼りなげなフルート二重奏がオブリガートをつける中、ソプラノとアルトが「私のイエスは捕らえられた」と嘆き、その狭間に群衆の「放せ、止めろ、縛るな」という叫びが聞こえ、更に進むと「不実な密告者、人殺しの輩」という群衆のユダとイエスを捕らえた者達に対する怒りのフガートと続く部分の描写はコルボは実に見事であります。描写に比重をおくのではなく、物語の進行の流れを一定にし、全体像をよりつかみやすい演奏であり、リヒターの演奏の対極にあると実感させられる場面です。
 聖書の中でイエスを捕らえた者に対して怒った一人の青年が剣を抜いて斬りかかったと書かれている場面をこのように二重唱と合唱でバッハは表現したのでしょう。その為続くレチタティーヴォでイエスが「剣をおさめなさい」という聖書の言葉が歌われるのです。
 この場面は、ゲッセマネの先のコラールの対極にある音楽で、受難を受け入れたイエスの決意に対しての希望に満ちたコラールと、実際に受難の現場での群衆の怒りというアンチテーゼが主題であるように思います。そしてコルボは決してフォルテシモを使わないで、せいぜいメゾフォルテ位で充分な効果をこの場面に与えています。そのトーンの向こう側には、モンテヴェルディやフォーレの演奏で示したコルボの静謐な、そしてとても甘美な響きへの傾斜を伴った特徴が隠されているように思えます。
 そして、福音史家(エヴァンゲリスト)の「その時、弟子達は皆イエスを捨てて逃げ去った」というレチタティーヴォに続いて歌われる第29曲のコラール「汝の罪の大きさに嘆け」は、第一部を締めくくる重要な役割を担っているのですが、ここのコルボの演奏の流れといい、合唱の正確なピッチと深い共感に裏付けられた歌唱によって、めざましい成果をあげていると考えます。

 鈴木盤はこの劇的な場面、イエスの心と弟子達の心の中に強い対比を殊更に強調することなく淡々とドラマを語り、全体像の中で大きな起伏を作っていくという態度で演奏していると考えられます。二重唱と合唱の場面、ソリストの素晴らしさと共に合唱の素晴らしさを指摘しておきたいと思います。特に有名なゲネラル・パウゼのあとの突然の転調の後の起伏を大きく取って、それ以前の「放せ、止めろ、縛るな」という叫びのやや抑えたような表現から感情が放たれ、強い印象を残す瞬間であります。
 一部最後のコラールも物々しくならず、声部間の受け渡しも実にスムーズで清々しさに満ちています。変に壮大ぶるのではなく、淡々とした歩みの中にバッハの音楽のスケールの大きさを無理なく味わうことのできる名演であると思います。
 リヒター盤でのこのゲッセマネの園の部分は、劇的そのものと言っても過言ではないでしょう。第25曲「神の御心がいつも行われますように」も大きな表情と強いアクセントで演奏され、その後のユダの裏切りからエヴァンゲリストの「イエスの捕縛」に至るレチタティーヴォも実に緊迫感のある音楽が展開されます。
 当然、ソプラノとアルトの「私のイエスは捕らえられた」という二重唱と合唱の「放せ、止めろ、縛るな」という叫びの場面は劇的そのものであり、続く3/8拍子の「不実な密告者、人殺しの輩」も言葉をよく聞き取れるテンポで、この三つの盤の中で最も遅いテンポでじっくりと攻めてくるといった具合なのです。
 イエスの後光のようにいつも伴う弦の和音もあまり高弦がそれを強調することなく、やや暗い印象を与えるのもリヒター盤の特徴ではないでしょうか?
 一部最後の第29曲「汝の罪の大きさに嘆け」も大きな表現でバッハを捉えていて、実に雄大ですらあります。今日では、このリヒターのような演奏は様式的に問題があるのでしょうが、ここから受ける音楽的、宗教的感動の圧倒的な大きさは唯一無比の物といって良いでしょう。

  第二部


 第二部は受難の核心部分です。
 この後半になっても、コルボは淡々とした語り口はそのままに、しかしその訥々とした語り口が極めて強い説得力を持つに至った希有な場合に遭遇することになります。
 まずワトキンソンのアルト独唱と合唱とによる第30曲「イエスは去って行かれた」が何気なく始まり、いつの間にかドラマに釘付けになっているといった感じなのです。ワトキンソンの歌唱は見事です。この点リヒター盤のテッパーなどよりずっと魅力的です。鈴木盤はブラッツェのカウンター・テナーによる歌唱で、これが実にはまっていて良いと思います。
 このアリアは、あまり禁欲的でありすぎると魅力が半減してしまいます。「最も美しい娘」(マタイ伝)による雅歌であるとも解釈できる一曲であり、第一部の導入の合唱の中の「花婿と花嫁」の記述に対している曲であり、第二部の開始がこのように「愛」をダビデ王の雅歌のように歌われる(磯山氏の文章に強く私は影響を受けているので、こんなことを思うのですが)意味を味わわせる点で、コルボ盤は最も良いのではないかと考えます。
 しかし、その後の「沈黙するイエス」の場面から第37曲のコラール「誰があなたをこんなに打ったのか」に至る場面では、コルボは描写的というより、より内面的な世界に焦点を当てているようです。リヒター盤や鈴木盤の緊迫感はそれほど強調せず、「偽りの舌」がどれほどイエスを刺しても心は常に愛で満たされているかのようです。
 こういう表現の方法もあったのかと、驚かされます。合唱の威力がこういった面で生きてきます。流れの平明さが平板になるのを防いでいるようです。

  ペテロの否認


 続く「ペテロの否認」はコルボ盤では最も緊張感を与えられていると思われます。リヒター盤、鈴木盤でもこの部分の緊迫感は最も強い印象を残す場面でありますが、コルボ盤は全体を平明に演奏しているが為により一層の集中をこの場面に要求しています。したがってこれに続くアルトによる第39曲「憐れんで下さい」へのつながりが一層強調される結果となっています。
 鈴木盤はこの面でもぬかりはないのですが、コルボ盤に比べると弱いと思いますし、リヒター盤も同様です。あまりに強い表現が続くと、こういった美しいメロディーで逆に緊張感が抜けてしまいます。しかしコルボは逆にここにクライマックスを持ってくるということに成功しています。
 ユダの自殺の後の「私にイエスを返せ」というバスのアリアはコルボ盤のケックランはやや音程が甘くそれを隠すかのような過剰な表情で私は評価しません。このあたりリヒター盤のフィッシャー=ディスカウに到底及ぶものではありません。
 このユダに対する扱いは、このマタイの中の大きな課題であります。磯山氏の「マタイ受難曲」(東京書籍)の中で氏が詳しく論じておられる「放蕩息子」としてのユダには私は強く感銘を受けたことを付記しておきたいと思います。
 そして再び「受難のコラール」。これに関する限り、私はコルボ盤が最も美しい演奏だと思います。リヒター盤の我が身を打ち据えるような厳しさは、この際不必要に思えます。この後には最も大きなイエスに対する「裁判」の場面が控えているのですから・・・。

  バラバを!


 さて、コルボ盤の第45曲の裁判の場面は、ここぞとばかりに劇的であります。「バラバを!」と叫ぶ群衆の響きには「憎しみ」が宿り、二度にわたって「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆には、今まで抑えてきたエネルギーを一気に吐き出すが如き憎悪が感じられます。この迫真の合唱がその直後、一転し「何と驚くべき刑罰」と応じるのです。その優しさ!!ここにコルボのマタイの真骨頂があるのではないでしょうか?
 だから、その後のソプラノの第48曲のレチタティーヴォ・アッコンパニャート「イエスは皆に良いことをしてくださった」から第49曲のソプラノ・アリア「愛の御心から」への流れが実に自然で必然的となるのです。リヒター盤、鈴木盤の厳しさは、逆にこういった「愛」とかの表現を堅苦しいものとしてしまう面も持っているようです。この辺りは純粋に好みの問題なのでしょうが。
 この辺りのドイツ語の発音がコルボ盤が最も劣るのでしょうが、私にはわかりません。マーシャルのソプラノは若干音程に甘さがあるようにも思えますが、充分に美しく、そして抑制された表現で清潔に歌われていて、私には大変好ましい演奏であります。

  鞭打ちの動機


 そして第51曲のアルトのレチタティーヴォ・アッコンパニャート「神よ、お憐れみ下さい」。伴奏の鋭いリズムはむち打ちであると言われますが、それはイエスを「偽りの舌」で刺した音型と同じであることをコルボははっきりと理解させてくれます。リヒター盤のテッパーは怒りの表現で次の第52曲のアリア「我が頬をつたう涙」の優しさと明瞭な対比をつけています。コルボ盤ではこの二曲の対比はやや弱められているようです。リヒター盤では逆に二曲は対照的な音楽として提示されます。したがってアリアの伴奏にある鞭打ちの音型が内面化していく過程は、リヒター盤ではより明確に表現されるのですが、コルボ盤ではやや曖昧になってしまいます。
 ただリヒター盤では、豊かな弦楽アンサンブルで鞭打ちの動機が演奏されて、やや違和感を感じるのは、すでに古楽演奏のスタイルが私たちの耳に馴染んでしまい、古い演奏スタイルについていかなくなっているのだなと、強く感じさせられます。
 鈴木盤ではもちろんテンポが少し速めに設定されていて、鞭打ちの動機は明確であるのですが、カウンター・テナーのブラッツェの歌唱に変化が無いため、第51曲と第52曲が同質の音楽に聞こえてしまいます。したがって、鈴木盤でも、鞭打ちの表現が内面化されていく過程が不明瞭になってしまっています。
 鈴木盤の後半部分は、全体にこの傾向が強く、凡庸な演奏では決してありませんが、やや平面的になりすぎると思うのです。特に第一部での立体的で躍動感を伝えていた演奏が、後半ではそのこと自体がややマンネリズムを生んでいるように私には感じられます。
 
 そして何度も出てきた「受難のコラール」が最も緊張感を伴って演奏されます。和声的にも最も充実し(五回とも違った和声、アレンジで出てくるのです!)調性もヘ長調という今まで一番高い調性を選び、(声楽的な意味で)響きを緊張したものにしているのです。
 コルボはこのコラールの第一節をフォルテで、第二節をピアノで歌わせます。そしてその第二節の方がより緊張を伴い、ローザンヌの面々は見事にこの難しいコルボの要求に応えているのです。同様の処置をリヒターもしているのですが、ミュンヘンの合唱団はローザンヌのレベルには達していません。これはこれで緊張感のある見事な演奏なのですが、はるかにローザンヌの面々の方が洗練されているようです。
 鈴木盤ではこの第一節と第二節の対比はより少なくなっています。合唱のレベルは極めて高く、ヴィブラートを使わないで歌うというスタイルでの歌唱としては最高の水準であると思います。ただ私の個人的な印象だけで申せばやや平面的で淡々とした歩みの中の一部に感じられました。これは鈴木盤の全体に関わるコンセプトのようです。

  十字架の道行

 この曲の後、十字架の道行となります。第56曲のレチタティーヴォ・アッコンパニャート「私たちの内なる血と肉こそ」から第57曲のバスのアリア「来たれ、甘き十字架よ」は地味ではありますが、フッテンロッハーの名唱の一つではないかと思います。この曲の通奏低音に内面化された「鞭打ち」の動機が流れ、深い意味を与えているのですが、コルボの演奏はガンバとオルガンによる控えめな音量ではありますが、先の第51曲と第52曲の流れからここに至って初めて「鞭打ち」の動機が内面化し昇華されるのであります。
 第56曲で「苦い」と表現された十字架が第57曲で「甘い」となっていて、第56曲ではガンバのせわしなげなアルペッジョの上を二本のフルートが十字架を背負ってよろめきながら歩く様を表現し、「私たちの魂に良い物ほど、その味は苦くなるのだ」と歌った後、「来たれ、甘き十字架よ」となるのですから、この対となるバスの二曲の歌は、マタイ受難曲の縮図のような部分であるように私には思え、この部分をあからさまな表現によらず、静謐とも言える演奏で表現しつくしたコルボとフッテンロッハーの見事さは当に賞賛に値すると考えます。
 リヒター盤のフィッシャー=ディースカウもまた名唱と呼ぶべきもので、さすがリヒターというべきか、劇性に身を任せず実に抑制の効いた演奏で深い感動をもたらせます。歌唱はフッテンロッハーに比べれば、より幅広い表現で、声の見事さも備え、これぞ世紀の名演と呼べるものではありますが、私はフッテンロッハーの静謐な表現もまた素晴らしいと思います。

  ゴルゴダの丘

 そしてゴルゴダの丘の場面へと曲は進みます。コルボは実に劇的にこの部分を描写します。明らかに第59曲のアルトの弔鐘のレチタティーヴォ・アッコンパニャート「ああゴルゴダ」から第60曲のアルトによるアリア「イエスが手を広げて」に続く部分との対比を意識していると思われます。
 したがって「他人を助けて、自分を助けられないとは」と嘲る群衆により強い表現をコルボは求めたのです。そしてこの後、ワトキンソンの素晴らしい歌唱によって、実に感動的に「イエスが手を広げて」と十字架上のイエスを歌うのです。合唱が「どこへ?」「どこに?」とアルトと掛け合うこの曲はゴルゴダの場面とは思えないほど幸福な響きに満ちています。それは十字架の上のイエスが手を広げてわれらを抱こうとしているように見えたからです。この強烈な対比が次の「暗闇」へ、そして後光のように伴っていた弦の和音も第61曲で無くなってしまい「エリ、エリ、ラマ、アザプタニ」とイエスはつぶやく。続いて起こる「エリアを呼んでる」という誤解。そしてイエスの死。
 次に、極めて穏やかに、そして痛ましさではなく、安らぎと強い悔恨の思いを伴って五回目の受難のコラールが「追悼のコラール」としてピアニッシモで歌われます。フリギア調(古い教会旋法)を使ったこのアレンジは、このコラールの最も深い精神世界を暗示していると考えます。
 そして、コルボはこの部分において極めて強い緊張を伴いながらも、穏やかさと深い懺悔の思いをこのピアニッシモの合唱に込めているようで、実に感動的です。

  イエスの死

 第63曲はエヴァンゲリストによる最も劇的な「地震」を描く場面です。そして合唱による「本当にこの人は神の子だったのだ」であります。
 この部分はメンゲルベルクやクレンペラーの弦の咆哮といった強烈なリアリゼーションもありますが、私にはあまりにも違和感がありすぎます。リヒターもまた、オルガンを強く出して、地鳴りを感じさせるといった迫真の演奏を残していますが、コルボはかなり控えめな演奏となっていて、コルボ盤ではコンバスの追加が目立つ程度で、エクウィルツの強い表現での素晴らしい歌唱を引き立てる存在に留めているのは賢明であると思います。
 この天変地異の出来事は聖書研究でも重要な課題であり、このバッハのマタイの演奏においても、いかに解釈するかで実に重要な課題であると思います。

 この後にバスによる第64曲のレチタティーヴォ・アッコンパニャート「夕暮れの涼しい頃」に至るのです。木の葉の風にそよぐ弦の細かな音型の上に、安らぎの音楽が奏でられるのです。「オリーブの葉をくわえていた」という一節から旧約聖書の「ノアの箱船」の「夕暮れになってオリーブの葉をくわえて鳩が戻ってきた」という事にならって、イエスもまた墓の中という箱船に入ったということを暗示していて、オリーブの葉はイエスの形見分けのような意味合いなのでしょう。だからこそ、次の第65曲のバスのアリア「自らを墓としてイエスを葬るのだ」につながっていくのです。このアリアはシチリアーノ風のリズムでありますが、コルボの演奏はまるでイエスの誕生を祝う牧人の歌のようで、全編に柔らかな表情ながら喜びが表現されていると思います。
 だから、ビラトと祭司長、ファリサイ人達のやり取りの空しさが生きてきます。それが第67曲の極めて深い安らぎに満ちた哀悼の歌となって「私のイエスよ、おやすみなさい」という呼びかけが生きてくるのです。
 そして最後に到達する「私たちは涙を流しながらひざまずき」と強い対比によって心に響いてくるのです。
 明らかにコルボはこの部分に全てを賭けているようです。目立つような表情は極力排し、流れを大きくとって、ソット・ヴォーチェの中で実に豊かに変化と対比を表現し尽くしたのです。

  まとめ

 おそらく最も対照的なのがリヒターによる演奏でしょうが、ここまでくるとどちらが良いとかいう次元ではないように思えます。また鈴木盤も後半になってやや平板に聞こえてきてしまいましたが、全体としては古楽器による最新盤として、極めて優れた演奏であります。現代楽器による演奏と比べるということ自体、無理があったかも知れません。
 コルボはともかく、リヒター盤は様式的にずいぶん今日の感覚からかけ離れたものになってしまって来ているのではないでしょうか。とは言え、音楽の力を強烈に感じさせてくれるという点では、今もなおファースト・チョイスの一枚であることは間違いはないでしょう。
 そのな中でのコルボ盤は、特異な位置にあるようです。あのフォーレの名盤の心のままに、マタイ受難曲を見事な統一感で演奏した力量は大変なものではないでしょうか。
 スイスの演奏家たち、合唱とオーケストラもとても安定した演奏で、コルボの厳しい要求に応えていた点も賞賛に値すると思われます。やや地味ではありますが、この聞き比べで、一番好きなマタイの演奏がコルボに移っていったのを最後に告白して、このレポートを終わります。
 次はヨハネ受難曲にしようか、それともロ短調ミサ?、美しいことでは定評あるクリスマス・オラトリオ?
どうしようかなぁ。