ヘフリガーのシューベルト三大歌曲集

E・ヘフリガー/シューベルト三大歌曲集
KING/KICC-9314〜6

 スイスの名テナー。エルンスト・ヘフリガーが同じくスイスの名ピアニスト、イェルク・エーヴァルト・デーラーと共に録音したシューベルトの三大歌曲集は、あまり知られることのない、もう一つの名盤と言えます。
 何しろ、ドイツ・リートの世界では、フィッシャー・ディースカウの存在があまりに大きく、彼の演奏で全てが終わってしまいそうになってしまいますから、ヘフリガーのこの録音もあまり光のあたることのない演奏の一つでありました。

 更に、ピアノがハンマーフリューゲルという当時の楽器を使うというコンセプトに、ピリオド楽器を使った実験的なCDのような気がして、私も聞きそびれていた一枚であったのです。
 岡田知子女史との普通のピアノ伴奏による「冬の旅」はずぅっと以前からの愛聴盤だったのですが…。
 つい最近、三枚組三千円という廉価で発売されて、はじめて聞いたのですが、そのあまりに素晴らしい演奏に絶句。恐れ入ってしまった次第です。

 録音は「美しき水車小屋の娘」がアールガウのセオン教会、「冬の旅」がグシュタートのザーネン教会、「白鳥の歌」がベルンのヴォーレン教会で行われています。
 グシュタートのザーネン教会は西のサンモリッツに並ぶ高級保養地で、メニューインの夏の家があったことでも知られています。ベルナーオーバーラントのシュピーツからレマン湖畔のモントルーに至るゴールデン・パスのルート上にあり、知る人ぞ知るといった美しい所です。他の教会は、私はまだ知りませんが、それぞれに残響、静音などについて検討して細心の配慮の元に選ばれた録音場所であることは明らかです。

 さて、最も古い「冬の旅」の録音が一九八〇年ですから一九一九年生まれのヘフリガー六十一才の録音ということになります。「美しき水車小屋の娘」は一九八二年でヘフリガー六十三才の録音、更に「白鳥の歌」に至っては一九八五年の録音ですから六十六才ということになります。
 でこの瑞々しい声は驚異ではないでしょうか。スペインの至宝であった故アルフレッド・クラウスというテノールと共に、現役テノールとしては驚異的な声であると思います。
 「美しき水車小屋の娘」も「冬の旅」もともにシューベルトの青春の歌でありました。
 小川の身を投げて死ぬ青年が、バスやバリトンの声ではどうしてもその音楽から若々しさが損なわれ、逆に深い人生観照をそこに聞くが如き演奏となり勝ちであります。
 しかし、このヘフリガーの歌は、明らかにシューベルトの青春を歌い上げているように思われます。
 テノールの歌手による演奏は、シューベルトの意図に反した移調も行われることもなく、原曲の響きを聞くことができるのも、バリトン版やバス版とは違ったある種の正統性のある音楽となっていることと考えます。
 この調を変えるというのは、私たち作曲をやる人間にとっては、とんでもなく迷惑なことであるのです。ソプラノの曲をアルトの人が歌うなら当然いくらかキーを下げなくてはならないことはわかるのですが、その為に伴奏の響きが全く変わってしまい、「それなら書き直すから待って!」と言いたくなるのです。
 連作歌曲なら更に作曲家は、曲と曲の調性の関係にも気を使って書いているわけで、結局歌手の都合でそれが無茶苦茶になってしまうのなら、「それならやめてくれ」と墓場に中でシューベルトが叫んではいないか、と思ってしまいます。
 こんな話はシューマンでもあります。有名なのはやはり「詩人の恋」でしょうね。

 しかし、バスの歌う「冬の旅」にも確かに良いものもあります。ハンス・ホッターの演奏などを知らないわけではありませんし、フィッシャー・ディースカウの偉業を決して軽視する者でもありませんが、この一点において、このヘフリガーの三大歌曲集はかけがえのない録音であると私は考えています。
 ヘフリガーの「冬の旅」を聞き終わると、さすらう青年の絶望は、慰めようのない深さを獲得していますが、それが老年の絶望とはまた全く別の世界であることをここから聞きとることができます。
 また、「美しき水車小屋の娘」の「枯れた花」は明らかにシューベルトの書いた絶唱の一つでありますが、絶望というより、死の向こうの甘い誘いを、これほど巧妙に表現した演奏はあるでしょうか?
 「白鳥の歌」の中の「影法師」はドイツ・リートの傑作中の傑作ですが、この深い精神世界を表現するのに、かつてエヴァンゲリストとして活躍した彼ほどの適性を示す例を私は知りません。歌の旋律線の彼方にグレゴリオ聖歌の「怒りの日」が聞こえて来るかのようです。この曲に至って、ややフォルテの時の声にコントロールを失った響きが混ざるのは、年齢から考えて仕方ないのかも知れません。
 その意味で劇的な「アトラス」では全体に表現を抑え気味にして、表現に深みを与えているあたりはさすがベテランの味と言ってよいでしょう。
 
 デーラーのハンマーフリューゲルによる伴奏は、干涸らびた古楽器の無表情とは違い、豊かなディナーミクの変化、音色の変化に裏付けられ、本当にこれでなければと思わせられるほどの出来となっています。
 試しに「美しき水車小屋の娘」の第七曲「いらだち」を聞いてみて下さい。反応の悪いハンマーフリューゲルという印象を徹底的に払拭してくれることでしょう。
 実際、一八二〇年頃のウィーンでフランツ・ブロートマンによって作られたハンマーフリューゲルをデーラーが弾いているのですが、その保存状態は特別に良いものであったのでしょう。
 一九一九年(ヘフリガーの生まれた年です)にオーストリア皇帝カルルがスイスに亡命する際に持ってきたものを、一九六五年にバーゼルのマルティン・ショルツの手によって修復されたものだそうです。

 ハンマーフリューゲルが現代のピアノのように音がでるとしたら、ヘフリガーの六〇才を過ぎたテノールの声量では、対抗できなかったかもしれません。声は保っていても声量は明らかに失われて来ています。しかし私は、それをネガティブに受け止めません。
 その中から、自分に合った音楽を、自分に合った楽器と環境で演奏すれば、人に与える感動は、そう言った外面的な世界だけで決するのではないことを、ヘフリガー氏は見事に証明してくれていると考えます。
 テノールは声だ。そう言うのは簡単です。確かに素晴らしい声を聞くと、それだけでその凄さに感動してしまうことも事実ですが、歌にはまだまだ奥深い世界が眠っているように思います。
 それを教えてくれるかけがえのないCDがこのヘフリガーのシューベルト三大歌曲集です。
 状態の良い楽器との出会いがこの名演を生んだとも言っても良いでしょうが、こういった地味なCDはすぐに廃盤になってしまいます。是非お早めのご購入を。ん?何だかレコード会社の手先になったみたい。