一期一会の名演、コルボのフォーレのレクイエム

フォーレ:レクイエム/コルボ指揮ベルン交響楽団
旧RVC/RECD-2815
現在はE/WPCC5127

 フリブールに生まれたミシェル・コルボがベルン交響楽団、ビュルの教会の聖歌隊と録音したフォーレのレクイエムは、この作品の最も理想的な姿を記録した(レコード)ものとして、永久に不滅でありましょう。
 ほぼ全編にわたって、グレゴリオ聖歌から中世のポリフォニー音楽をその拠り所とした旋法への帰依と、それによる調性のせめぎ合いを逃れることでの、全編にわたる「安らぎ」への傾斜が、この作品の大きな特徴と言えるでしょう。

 カトリックの死者を送る祭礼の音楽であるレクイエムが、何故かくも甘美で安らかなのか。それは恐らくはヴェルディやベルリオーズ、あるいはケルビーニやモーツァルト等の名曲と呼ばれるレクイエムが持つ死を最後の審判への心の抑揚を捉えた世界ではなく、永遠の安らぎとしての死とそれへの敬虔な祈りの思いに満たされた世界を表現しているからではないでしょうか。
 それ故、フォーレのこのレクイエムは、後世の作曲家たちに少なからずこの作品を意識させることとなったエポック・メーキング的な作品となったのです。

 事実、名曲として知られた一九四七年に書かれたモーリス・デュリュフレのレクイエムは、七〇年の時を隔てて、尚フォーレの強い影響下で生まれた名曲と言ってもよいでしょう。
 美しいこのデュリュフレのレクイエムの色んな部分にフォーレの名残が聞かれます。がそれを全く意識させない音楽そのものの持つ力によって、このデュリュフレの作品は永く歌い継がれる名曲となったのです。

 ともあれ、フォーレのこの素晴らしい作品の、恐らく最高の名演が、コルボの初期のベルン交響楽団を指揮した一枚であることは事実です。
 スイスは十九世紀から合唱の伝統があり、ブラームスも度々訪れて合唱の指揮をしています。そしてカソリックのカントン、フリブールの小都市、あのグリュイエール・チーズの故郷、かわいい丘の上のお城の村グリュイエールの村から三十分ほどのとなりの町の教会の聖歌隊が、この名演の主役の一部を担っていることもまた強調しておきたい事実です。
 ソプラノ・ソロの代わりにボーイ・ソプラノを起用したことで、美しいピエ・イエズがどうなるかと思われる向きには、本来ボーイ・ソプラノで歌うべきと思わせるほどの名演でアラン・クレマンが応えていることを申し述べておきましょう。
 聖ピエール=オ=リアン・ド・ビュル聖歌隊は少年合唱であり、実に素直な発声と美しいピッチでフォーレの世界を余すところ無く表現しています。

 実際、フォーレという作曲家の作品はとんでもなく難しいテクニックを要求するものも、ロマンティックな表現、過度な表情を激しく拒否し、無垢な表情で、あるいは無垢な精神で対処しないと、全く音楽としての体を成さないことが多いのです。
 このレクイエムはまさしくその代表的な作品で、オーケストラがベルリン・フィルやシカゴ交響楽団ではなかなかこう行かなかったでしょう。それがフォーレの難しさの一端を成していることは事実です。
 そして、それを見事に克服したのがベルンのオーケストラというのも面白いですね。フィリップ・コルボのオルガンも華美にならず、実に抑制の利いた演奏となっていますが、コルボと多くのモンテベルディやバッハなどの名演を記録した名バリトン、フッテンロッハーの抑えた表現の中に無限の世界を感じさせるかのような歌もまた、この演奏の特色を担っているのです。
 そして、全編にわたって集中力を持続し演奏を引っ張っていくミシェル・コルボの指揮の見事さ!

 フォーレのレクイエムの演奏は数多くありますが、人気投票でも大体いつもこの盤が一位となるのは、結局万人を引きつける癒しの世界が、ここでは自然にあふれているからでしょうね。
 コルボは後にこの作品を再録音していますが、これほどの演奏とは言えないようです。もちろん見事にトレーニングされた演奏の素晴らしさは高く評価しなくてはなりませんが、このベルンでの録音は恐らくコルボにとっても、恐らくは私たちにとっても一期一会の演奏だったのではないでしょうか。
 「自分の葬式では何もするな、ただこのレコードだけはかけてくれ」という音楽好きの人が多いというのも納得できます。
 そして私もそう思います。