ザンクト・ガレン生まれのベーター・マーク

 チューリッヒを出て、ヴィルやラインハルトのヴィンタートゥーア、シャフハウゼンといった魅力的な町並みを過ぎて、アッペンツェルに近く、大聖堂のあるザンクトガレンは、今から四年あまり前、一週間近く滞在して、付近をウロウロしておりました。
 ボーデン湖を行き来して、メールスブルクやリンダウ、マイナウ島やコンスタンツといったドイツ領もザンクトガレンに結びついて思い出します。
 そのころ、ここがあのベーター・マークの生まれ学んだ所だということを全く知らずにいました。

 緑の絨毯がずっと遠くまで広がり、所々に小さな実を鈴なりにつけたリンゴの木がやさしい木陰を作る、そんな風景は、万年雪と氷河のスイスとは違うもう一つの原風景のような気がします。
 そして、家並み、教会の作り、言葉等もドイツ的な文化の中からこそ、こういう一徹な音楽家が育つのでしょう。
 恐らくは、マークのような音楽家は、パリやベルリン、ロンドンという所では、育たない性質の音楽家ではないでしょうか。 一九四七年、ビールソロトゥルン歌劇場(確かジュネーヴ音楽コンクールで第二次予選だったか本選だったかで行ったことあります。そうそう友人のテノールのG氏もここで歌っていたっけ)でデビューし、後はデュッセルドルフ市立歌劇場や、ボン市の音楽監督といった、ドイツでの活躍がその最初のキャリアに刻まれていた彼は、前途洋々たる音楽家としての実績を積んでいたのですが、香港で二年間、禅の修行をするなど、なかなか変わった経歴を持っています。

 一九六三年には、来日して日本フィルを振り、モーツァルトのジュピターなどの名演を残しています。
 小学生の頃、ダイヤモンド・シリーズという廉価盤のシリーズに入っていて、擦り切れるほど聞いたレコードでした。最近、CDとなりDENONから出ていますが、懐かしく聞いております。
 当時の日フィルが、迫真のモーツァルトを聞かせる、なかなかのものですよ。

 一九六四年からはウィーンのフォルクスオーパーの音楽監督も務め、更にメジャーなオーケストラに行こうと思えば行けたのに、この辺から、彼は商業主義的な音楽産業とすっぱり手を切ってしまいます。
 七〇年代に入ってからは、イタリアを中心に客演中心に活動していました。平たく言えば「ドサマワリ」だったのですね。

 別に不遇だと思っていたのかどうかは知りませんが、八〇年代になって、祖国のベルン交響楽団の音楽監督に就任してから(一九八四年)時々、その演奏の録音を聞くことができるようになりました。
 今も、イギリスのIMPから出ています。ダンディの「フランス山人の交響曲」などかけがえのない演奏も含まれていて、ベルンのオケもよく健闘しています。

 一九八三年からイタリア北部、パドヴァ州立のオーケストラの音楽監督としても活動を始めていて、ここを指揮しての演奏が最近大量に廉価で発売されました。
 一九六六年創立の若い団体ですが、コンサート・マスターが懐かしいイ・ソリステ・ヴェネティのソリスト、ピエロ・トーゾです。

 まだ、響きは軽く、編成もあまり大きくはなさそうで、個々の演奏の力量がそのまま音に出てくるような、編成の小さなオケですが、少しずつですが、着実な成果をあげつつあるようです。

 一九一九年生まれとされていますから、もう随分とベテランの指揮者となってしまいましたが、いつまでもいい音楽を聞かせてほしいと思います。