リヒャルト・シュトラウスの最後の日々

  リヒャルト・シュトラウスは戦後、自身の山荘のあるガルミッシュ・パルテンキルヒェンから出て、スイス各地を転々としています。もう晩年に至り、往年のように精力的に演奏活動をして歩くとか、歌劇を作るとかいうことは無くなりましたが、モーツァルトのように素晴らしく鋭敏な音楽的な能力に恵まれた彼は、死ぬまで、作曲の力が衰えるということは無かったようです。

 戦後すぐ、スイスに移った彼は、チューリッヒ近郊のバーデンで、傑作「オーボエ協奏曲」を書き上げます。フィラデルフィア管弦楽団のジョン・ランシーというオーボエ奏者(懐かしいですねぇ、彼のソロのレコードは愛聴盤でした)から小品を依頼されたのがきっかけだったそうですが、大変古典的で、すっきりした音組織と独創的な構成は、この作曲家が老境に入ってもなお、瑞々しい感性を保っていたことの証のように聞こえます。
 この少し前、「二十三の独奏楽器のための変容〜メタモルフォーゼン」をスイスのバーゼル室内管弦楽団の指揮者パウル・ザッヒャーの依頼によりガルミッシュの山荘で書かれ、チューリッヒでザッヒャーによって初演されています。
 このメタモルフォーゼンは私見ですが、バルトークの「弦・打・チェレスタのための音楽」と共に今世紀の室内管弦楽のための頂点に立つ曲だと思います。
 戦争で破壊される古き良き文化に対する惜別の思いを根底に、強い音楽となっています。

 ところで、このザッヒャーという人はバルトークとも親交厚く、「弦・打・チェレスタのための音楽」も彼の依頼になるもので、現代音楽の裏の立て役者とでも評したい人物です。一九〇六年生まれですから、まだ生きているとすれば、九二才ですね。スイスの作曲家、フランク・マルタンなどとも交友を結び、数多く委嘱し、初演しています。
 なかなか、新作を演奏会で取り上げるというのは、客入りに影響することですし(ベートーヴェンやモーツァルトと違い)、収入あっての演奏家稼業にとって、勇気のいることなのですが、こういう、パイオニア的な演奏家によって、また作品が生まれ、次のスタンダードとなっていくことを考えたら、ザッヒャーの先見の明とそのパイオニア精神に感服せざるを得ません。

 こういう音楽家、アンセルメもそうですし、最近話題となっているヘルマン・シェルヘェンもそうでした。シェルヘェンなどはスタジオを作って、現代音楽の作曲家たちに開放していたそうで、その中からマデルナを始め、多くの作曲家が育っていったことを考えると、スイスのことを文化の辺境のように言うひとなんて、きっと居なくなると思うのですが…。

 話を戻して、リヒャルト・シュトラウスは一九四八年、死の前年、モントルーの五つ星ホテル、パレスホテルに滞在している時に、アイヒェンドルフの詩「夕映え」に曲をつけ、ついでオーケストラ編曲を行いました。風薫る五月のモントルーの湖畔からは、きっとフランス・アルプスの雄大な眺めと、名山ダンデュミディの白い峰が澄んだ空気の中、そびえていたことでしょうね。

 その作曲の途中、シュトラウスは友人からヘッセの詩集を譲り受けます。シュトラウスは、ヘッセの詩集から四編の詩を選び、アイヒェンドルフの詩につけた「夕映え」と併せて、五曲の歌曲集にする計画を建て、六月には、ヘッセの詩による最初の曲「春」を作曲。ポントレジーナに移って、七月半ば、オーケストラ編曲を仕上げ、更に同地で「眠りにつく時」を作曲。八月建国記念日を過ぎて八月四日に完成しています。
 八月終わりに、モントルーに戻り、更にヘッセの詩「九月」に曲をつけたのが九月二〇日でした。
 しかし、彼にはもう時間がありませんでした。あと一曲残して、彼は永遠の旅に立ったのです。

 あの美しいたそがれの音楽は、ポントレジーナの風景やシルス・マリアといったオーバー・エンガディンの風景にもっともぴったりするような気がします。そうそう、シルス・マリアにはニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」を書いたという記念館がありましたっけ。
 周りを見ていると、画家セガンティーニの世界が広がっていて、不思議な感動を憶えます。そしてそれは、リヒャルト・シュトラウスのこの最後の音楽につながっていくように思えるのですが。

 関心をお持ちになられた方は、是非一度聞かれてみてはいかがでしょうか?私は、八五才の老人がなんと瑞々しい感性で、音楽に向き合っているのだろうと、まず感動しますが、この曲は、そんなことを知らなくとも、聞いていると、音楽が深い人生観照を語り始めるような、名曲中の名曲と思えてまいります。

 スイスで生まれた、二十世紀の傑作たち、いかがですか?それでもスイスは文化の辺境だと?