メンゲルベルクとスイス

 一枚の写真があります。CDのジャケットをかざっている写真なのですが、初老のそれでも精悍な顔つきの男性が小屋の戸口に佇みこちらをじっと見ている写真です。その男性の名はウィレム・メンゲルベルク。サンモリッツからエンガディンの谷を少し下ったツォーツの村の彼の山荘での一コマでした。
 オランダの名指揮者メンゲルベルクは、晩年を戦犯として音楽界を追放され、スイスのグラウビュンデン州に、隠遁していたのです。しかし、彼のスイスの付き合いは実は彼の最初のキャリアからでした。
 生地ユトレヒトの音楽院で学んだ後、メンゲルベルクはドイツのケルン音楽院に留学し、ベートーヴェンの孫弟子にあたるフランツ・ヴェルナーに師事します。デビューはピアニストとしてで、一八九〇年のことでした。その頃、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団を指揮して、指揮者としてもデビューしていますが、この成功がきっかけとなり、ルツェルン市立管弦楽団及び歌劇場の指揮者のポストを得ます。一八九一年にルツェルンに赴いた彼は、前途洋々たる指揮者としてのキャリアの最初を、四森林州湖畔のルツェルンで始めたのでした。
 まだ、二〇才だった若者はここで四年の年月を過ごします。トーンハレのこけら落としやチューリッヒ歌劇場のこけら落としなどもあり、ブラームスに会ったりして大いに刺激を受けていたメンゲルベルクは、一八八八年に創設されたアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に一八九五年の冬、ピアニストとしてリストのピアノ協奏曲第一番を弾いて共演します。このコンサートのあと、初代指揮者であったヴィレム・ケスから、若い二十四才のメンゲルベルクに首席指揮者の座が受け渡されたのでした。
 メンゲルベルクは、友人にマーラーやシュトラウスといった大作曲家にして、当時の大指揮者たちが居たわけで、その彼らがこぞって絶賛し、メンゲルベルクの指揮を信頼しました。彼によって初演され、世に広まっていった作品をあげると大変な数になることでしょう。たとえば、リヒャルト・シュトラウスの傑作である交響詩「英雄の生涯」はメンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に献呈され、彼らが初演していますし、 マーラーも数多く取り上げています。一九三八年には、マーラーの交響曲第四番の録音も残しています。スイスで生まれたユダヤの作曲家エルネスト・ブロッホの名曲、ヴァイオリン協奏曲もそうでした。
 しかし、何といってもアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を世界の一流楽団に育て上げたことが、彼の最大の功績であると考えられます。オランダの人々から、心から尊敬され、王族の人々からも信頼厚かったメンゲルベルクでしたが、一九三九年九月一日にナチス・ドイツが始めた戦争によって、彼の晩年は孤独なものになってしまったのです。
 戦犯として裁かれたのは、ナチス・ドイツで演奏してきた音楽家たちでした。フルトヴェングラーやカラヤン、ベーム、クナッパーツブッシュ、クラウス、メンゲルベルクといった指揮者からコルトーやギーゼキングなどたくさんのソリストもいました。彼らの全部が全部ナチの党員であったわけでもなく、ただ依頼されて演奏してきたという者もいました。ナチの占領地で演奏をすることを拒否してきたフルトヴェングラーですら、裁かれ、無罪となるまで二年の年月を、何の活動もできずにいたのです。積極的に演奏していたカール・ベームは、生徒をとることすら禁止され、かなりの困窮を経験しています。
 メンゲルベルクは、彼らの中でもかなり重い判決で、十年の音楽界追放でありました。
 そして、前途洋々たる青春時代を送ったスイスの山荘に彼は腰を落ち着けます。ツォーツの村の山荘で、戦後六年間を過ごしたのです。かつて同様に戦犯に問われた、フルトヴェングラー、カラヤン、クラウスといった音楽家たちが、どんどんと楽界に復帰するのを見ながら、孤独のうちに過ごします。
 追放が短縮され、翌一九五二年には音楽界に復帰できることとなっていたのですが、あと一年という一九五一年三月二十二日にエンガディンのツォーツで亡くなりました。

 指揮者としての第一歩を記したルツェルンでは、前途洋々たる希望に満ちた四年間を、そして、晩年、音楽界を追放されての六年間をエンガディンで過ごしたメンゲルベルクを、スイスは受け入れ、そして見守ったのです。