大指揮者のトスカニーニの娘ワンダと結婚したのがルガーノから一時間ほどのミラノで1933年のことですから、この地域は彼にとってとても親しみ深いところであったようです。義父のトスカニーニもミラノで活躍し、後半生をアメリカで活躍した指揮者ですから、それは当然かもしれませんね。ホロヴィッツは、1934年に故国のロシアから実父を呼び寄せ、イタリア、ベルギー、フランス、そしてスイスへの演奏旅行につれていったりしています。この頃、彼に長女ソニアが生まれますが、あのスターリン時代のこと、父は帰国の後、収容所に入れられ、亡くなってしまいます。
1935年も義父との演奏会に出たり、北欧を回ったりと、活躍していますが、年末から体調を崩し、スイスで静養しています。
この後は間欠泉のように、活躍と休養のサイクルがはっきりして来て、ついに1936年の五月のトリエステの演奏会を最後に、休養。盲腸の手術などをうけたりしています。
そして1937年ルツェルンで静養している時、彼の後半生を彩る多くの大音楽家と交流を深めていったのです。ドイツ系のバイオリニストとしては、今世紀最高のアドルフ・ブッシュや同業のピアニストのルドルフ・ゼルキンとも毎日会っていたそうです。
また近くには映画「逢い引き」に音楽が使われて、一般に有名な大ピアニストで大作曲家のセルゲイ・ラフマニノフも滞在し、一緒に演奏したりして、多くのものを吸収していったようです。
この頃は、ホロヴィッツは本当に隠遁生活に入っていたため、「彼は発狂した」とか「自殺」とか、いろいろマスコミに書かれています。実際に翌1938年には死亡という記事が新聞に出たりしました。
しかし、そんな事実はなく、彼はチューリッヒで難民の為の演奏会にでたり、ルツェルン音楽祭に出たりと、スイスを中心に活躍していたのですが、大戦の勃発とともにアメリカに渡ります。
こう見てみると、ホロヴィッツの音楽キャリアの中でも、実り豊かな時期が、大戦前のスイス時代だったと言い切っても、言い過ぎではないと思います。
ルツェルンの湖と穏やかな風光が育んだ様々な音楽のことを思うと、この地が、ウィーンやベルリンといった所と同列に論じることは出来なくても、十分音楽文化のでも多くの貢献をしてきたと考えるのは、行き過ぎでしょうかねぇ。
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