ルツェルンの夏、国際音楽祭について

 戦前、日本にやって来た最初の大音楽家として、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者をつとめたベートーヴェン演奏のかつての権威フェリックス・ワインガルトナーがいます。当時の新聞はトップで彼の来日、そして演奏会のことなどを連日伝えました。今では、世界的な音楽家が日本にやってくるなんて当たり前ですが、当時はそれこそ大変なことだったそうです。

 このワインガルトナーは、ドイツ人でしたがバーゼル交響楽団の指揮もしていた関係でスイスともずいぶん深い縁で結ばれておりました。ナチスが政権をとってからは、奥様がユダヤ系ということでバーゼルに居を移し、そこから世界各国に客演していたそうです。
 その彼と、当時のドイツを代表する作曲家であったリヒャルト・シュトラウスの働きかけで、このルツェルンの町で小さな音楽祭が一九一〇年頃から始まったのです。一九三七年にはクンスト・ハウスが建てられ、アルトゥーロ・トスカニーニが指揮して国際音楽祭としてのスタートを切ったのがそもそものルツェルン音楽祭のはじまりとされています。

 ルツェルン! 
 この風光明媚な街は、ピラトゥスやリギといった古くからある登山鉄道に、またティトゥリス、エンゲルベルクといった山の町に近く、四森林州湖の観光の基地でもあります。
 ゴットハルト峠の終着地として中世より交易の要衝として栄え、オーストリア公爵領土として、ハプスブルク文化を受け継いだこの街は、十八世紀から十九世紀にかけて流行したリギ観光によって多くの文人、知識人を引き寄せて来たのでありました。
 ここを訪ねた有名人を列挙すると大変なことになるでしょうね。ゲーテやマーク・トゥエイン、ストラビンスキーやチャイコフスキー……。

 さてみなさんはルツェルン音楽祭の名前をどこで最初にお聞きになりましたか?
 おそらくは、フルトヴェングラーの数々の名演や、ヴォルフガング・シュナイダーハンが弟子のルドルフ・バウムガルトナーたちとともに設立したルツェルン祝祭弦楽合奏団の名演の数々に接したことがきっかけで、という方が多いではないでしょうか。
 ルツェルン音楽祭はオペラを主体としたザルツブルク音楽祭とは違い、コンサート中心の音楽祭です。もちろん、多少不便ではあってもオペラも上演されていますが、基本はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などと、アルフレート・ブレンデルやアンネ=ゾフィー・ムターなどといったスターたちのリサイタルが中心です。
 初期のライブ録音には、ホロヴィッツが、岳父のトスカニーニの指揮で演奏するブラームスのピアノ協奏曲の録音があります。話によると、ブッシュ弦楽四重奏団の各メンバーがオケのそれぞれのトップに座り、客席にはワルターやゼルキンがいたという録音が残っています。何と!
 こうした傾向は戦後、演奏再開したばかりのヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、ほぼ毎年ルツェルンに来て、演奏会を開いたことで、国際音楽祭としての名声が確立していったと言えるのではないでしょうか。中でも、フルトヴェングラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したベートーヴェンの第九は、その深み、感動の深さで最高のものとも言われていますし、祝祭管弦楽団(チューリッヒのトーンハレ管やヴィンタートゥーア管の選抜メンバーによる臨時オケ)を振ったブラームスの第一交響曲やベートーヴェンの「英雄」などの素晴らしい演奏の数々が録音され、それらは今もレゴード店の店頭を飾っているのです

 この音楽祭は、大体八月中頃から九月半ばの一ヵ月の期間で行われます。かつて、ほとんどの演奏会は市立劇場で行われていましたが、二〇〇〇年より新しいホールがルツェルン駅のそばに出来て、主な公演は市立劇場から新ホールの方に移りました。
 でも変わったのはそれくらいで、ベルリン・フィルやロイヤル・コンセルトヘボウ管といった超一流のオーケストラから、ブレンデルやルプーといったいかにも通好みの演奏家たちが、腕を競い合うのは、昔のままであります。
 現代の作曲家への委嘱をし、その作品を初演するのも、この音楽祭の伝統です。
 ルツェルン音楽祭は、ただ名演奏家をつれて来て、好きな曲をやらせるというコンサートのシリーズとはちょっと違います。毎年、あるコンセプト、テーマが設定され、それに沿ったプログラミングがされている点を忘れてはなりません。