シェルヘンとスイス

 ヘルマン・シェルヘンというと「ああ懐かしい」などと思う人は、随分キャリアの長い音楽愛好家だと思っていたら、最近のスイス・イタリア語放送管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲全集などで知っている人も随分多いようですね。
 それにウェストミンスターの原盤が発見され、それらがCDに復刻され、随分売れたようで、シェルヘン・ファンとしては喜ばしい限りですが、このドイツの革新的な指揮者に対してあまり知られていないことも多いようですので、ここに少しばかり書いてみたいと思います。
 ヘルマン・シェルヘンとスイスについて書くとなると、少々スイスに対して辛い一面を見ないわけには行かないのです。お弟子さんのフランシス・トラヴィス氏(東京芸大名誉教授)が書かれているのを読む機会があり、ちょっとショックであったのですが、とても興味深い内容だったので、ここにその内容を紹介して、シェルヘンとスイスの関わりについて考えてみたいと思います。

 一九一二年、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」で指揮者としてデビューしたシェルヘンは、正規の音楽教育をほとんど受けずにヴァイオリンとビオラをマスターし、ついにはベルリン・フィルの団員となっていたのですから大変な才能と努力家だったようです。
 以来、一貫して、新ウィーン楽派のシェーンベルクやウェーベルンの音楽を演奏し続け、同時代の音楽の普及に努めた人としても、大いに記憶される人物であります。

 ラトヴィアのリガ交響楽団の指揮者としてのスタートが一九一四年ですから、指揮者としてのキャリアを二十三才頃に開始したことになります。しかし第一次世界大戦で、ロシアの捕虜となった後、帰国。

 一九一八年に帰国した後は、一九一九年に新音楽協会、一九二〇年音楽雑誌メロスの創刊と、活動範囲をどんどん拡げ、一介の指揮者としてだけでなく、プロデューサー的な仕事もこなし、後進を育てるのにも熱心で、ダルムシュタットの音楽祭で指揮法のマスター・クラスを開催するなど、当時としては画期的なことをどんどん押し進めた音楽家であったようですね。
 一九二二年にフルトヴェングラーの後任としてフランクフルトに赴いた時に同時にスイスのヴィンタートゥーア・ムジーカ・コレギウムの客演指揮者となり、ヴィンタートゥーア市立管弦楽団の音楽監督に就任しています。 
 ドイツにナチ政権が誕生するといち早くスイスに居を移し、ヴィンタートゥーアを中心に活躍。
 チューリッヒのベロミュンスター管弦楽団とも演奏をはじめ(一九四五年)スイス・イタリア語放送管弦楽団の客演などをこなしています。

 しかし、一九五〇年頃といえば、日本でもGHQによるレッド・パージが盛んであった頃であります。スイスにもそれがありました。
 戦争で多くの人が移り住んで来たスイスではその頃、よそ者を疎んじるような傾向があったと思われます。
 そして、革新的な気質を持つ(これはシェルヘン自身が共産主義に近親感を持っていると発言しています)シェルヘンが保守的なスイスの音楽界で邪魔者扱いされ、活躍の機会を失わせるような動きが一部にあったののは事実のようです。
 例えばチェコの文化大臣(当時は共産圏です)と一緒にチューリッヒの空港にシェルヘンが降り立ったと新聞でウソの報道がされたりしていたと、トラヴィス氏の一文に載っています。その新聞をトラヴィス氏はフォロ・ロマーノの野外コンサートでシェルヘンがベートーヴェンの第九を指揮している日に見たと言いますから、かなりの部分がデマと中傷で塗り固められていたと考えられます。

 シェルヘンは東欧への客演も多く、その東欧の共産圏の音楽活動が極めて活発で素晴らしかったと言ったことを、共産主義のシンパと受け取られ、実際アメリカ国内での凄まじいレッドパージの中、恐慌を来したシェーンベルクから「共産党員なのか」という質問の手紙を貰ったこともあるそうです。
 実際には、シェルヘンは共産党員でもなんでも無かったのですが、それをウソで固めたデマゴーグによって彼は、ヴィンタートゥーアとベロミュンスター管の地位を辞任することになります。
 考えてもみてください。彼ほどの人が、アンセルメのオーケストラやチューリッヒやバーゼルのオーケストラと全くと言っていいほど共演していないのは、不自然であるとしか言えません。
 ミラノ・スカラ座やウィーンにはあれほど客演しているのに…です。
 これらのシェルヘン排斥の運動に、おそらくスイス音楽界の大御所エルネスト・アンセルメ、フォルクマール・アンドレーエ、パウル・ザッヒャーといった同業者が加担していたことによる結果であると思われます。

 彼の能力が多くの同業者から恐れられ、排斥されたというのが実際ではなかったかと私は推測しています。そしてそれに、スイス流の保守的愛国心が絡んでいったのではないかと私は推測しているのですが、実際はどうだったのでしょうかねぇ。

 しかしティチーノ州(イタリアに近いルガーノとベリンツォーナの中間の村)クラヴェザーノの自宅に電子音楽スタジオを作り(戦後すぐの頃に、こんなものを作るというのは、とんでもない冒険であったことでしょう)ルイジ・ノーノら新進の作曲家を積極的に支援していったのです。
 まぁ、おそらくはここに住み着いたことが、ルガーノのスイス・イタリア語放送管弦楽団との共演を生んだのでしょう。
 自身も作曲をよくするシェルヘンはフルトヴェングラーの亡命にも部分的に手を貸しています。そのことを感謝するフルトヴェングラーの手紙が公開されていて、何かの折りに見かけた記憶がありますが、それにしても不思議なスイスでの音楽人生であったと思います。
 冬の寒い一日。シェルヘンによる類い希なる素晴らしいバッハのマタイを聞きながら、彼のスイスでのことを考えていました。
 一九六六年、フィレンツェに客演中、新作の公演中に心臓発作に倒れ、この世を去ったシェルヘンについて、その素晴らしい芸術についてもっと知ってほしいと思います。
 というわけで、少し「スイ音スイ薦盤」のコーナーでも彼のCDをいくつか取り上げてみたいと思います。