モンタニョーラのブルーノ・ワルター

 一九九五年の六月のある日。新聞の片隅に「アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、スイスのルガーノにて亡くなる」の記事が載っていました。その記事を見て、私は二十年以上も前、大阪フェスティバル・ホールで聞いた、あの絶妙のベートーヴェンの三番のソナタ、シューマンの謝肉祭、そしてアンコールでのドビュッシーの奇跡のような音色が、昨日のことのように思い出されたものです。
 ピアノからあれほど多様で美しい音が紡ぎ出されるとは今持って奇跡ではないかと思うほどの、あの演奏会は生涯忘れ得ぬものとなりました。そのミケランジェリもルガーノで永遠の眠りについたという記事を目にして、あの時の彼が作り出した奇跡のような時間を、私は思い返し、はるかルガーノの美しく澄み切った青空を思い出していたのです。

 ミケランジェリがルガーノで亡くなる三十年以上前のことですが、ここで二十世紀を代表する指揮者の一人、ブルーノ・ワルターが永遠の眠りについています。ビバリーヒルズの自宅で亡くなった後、モンタニョーラの聖アボンディオ教会の墓地に葬られたのであります。

 ワルターは戦前より日本の音楽ファンにとってフルトヴェングラー、メンゲルベルクと並ぶ大指揮者でありました。一八七六年九月一五日にベルリンに生まれ、九歳でシュテルン音楽院に入学し、作曲とピアノを学んでいます。翌年には初めてのリサイタルを行うほどの楽才をしめしたワルターは、一八八九年、一三歳の時にベルリン・フィルハーモニーと共演。モシュレスのピアノ協奏曲を弾いて、本格的にピアニストとしてデビューします。しかしこの年、ワルターはハンス・フォン・ビューローの演奏会を聞いて強い衝撃をうけます。そしてワルターはピアニストから指揮者へと人生の舵を切ったのでした。
 一八九三年、ワルター十七歳の時に作曲した「海は凪いで」という合唱とオーケストラのための作品が、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会で初演され、ワルターは音楽家としての頭角をあらわしていきます。この年の夏、ワルターはケルン歌劇場の練習指揮者となります。ワルターは指揮者への最初のステップに立ったのです。翌年の早春の頃、ロルツィングの「皇帝と刀鍛冶」でオペラの指揮者として改めてデビューし、夏には、ハンブルク国立歌劇場と契約。そこでワルターはマーラーとはじめて会ったのでした。
 マーラーはワルターの高い技術と音楽性を見抜き、どんどん指揮者として登用していきました。翌年の一八九五年には、副指揮者に、そして一八九六年には楽長に昇進したのです。
 ところでワルターはこの頃まで「シュレジンガーという名前でありました。こんな名前では売れないとマーラーが改名を勧め、今日知られるブルーノ・ワルターという名前になったのですね。マーラーはまさに指揮者ブルーノ・ワルターのもう一人の産みの親であったわけです。
 マーラーに認められ、彼から大きな影響を受けたワルターは、ハンブルクからブレスブルク市立歌劇場首席楽長、リガの市立歌劇場の首席指揮者、楽長などを歴任します。そして一九〇〇年からはベルリン宮廷歌劇場楽長。翌年にはマーラーに招かれてウィーン宮廷歌劇場にデビューし、マーラーの副指揮者としてウィーンをベースに音楽活動をいよいよ活発にしていったのです。

 マーラーはワルターを深く信頼していました。畢生の大作でもある交響曲第八番「千人の交響曲」の初演の時も、ワルターは副指揮者としてサポートをしました。ですから、一九一一年五月にマーラーがパリで亡くなり、遺作となった第九交響曲と「大地の歌」の初演は、ワルターに任されることとなったのも当然のことだったと言えましょう。後にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、見事な第5交響曲のアダージェットゆ第9交響曲の録音を残していますが、これなどはまさにマーラー演奏の正統派とでも呼ぶべき名演であります。
 一九〇四年にスイスの指揮者兼作曲家のフォルクマール・アンドレーエと知り合いました。この頃たしかアンドレーエはミュンヘン歌劇場の副指揮者でした。出会ったところがミュンヘンだったかウィーンだったかは判然としませんが、二人は全ドイツ音楽協会を通じて親交を深めていきました。アンドレーエの演奏を聞くと、どこかワルターに通じる暖かさと意志の強さがあるように思います。
 二人とも作曲家としても有名であったことや、古典派からロマン派にかけての音楽に素晴らしい適性を示したことなど、共通点は数多くみられます。性格的にも音楽的にも共通のものを持っていたこの二人は、深い友情で結ばれていました。ワルターはアンドレーエの作品を積極的にプログラムに加えてウィーン・フィルハーモニーやミュンヘン、ライプツィヒなどで紹介し、更にアメリカに渡った後も、積極的にアンドレーエの音楽を取り上げています。アンドレーエも、後にホーム・グランドとなったチューリッヒにワルターを招聘して、チューリッヒはもちろん、ヴィンタートゥーアやバーゼルなど多くの場所でコンサートを行っています。
 ワルターがはじめてオーバーエンガディンを訪れたのはいつのことか知りませんが、第一次世界大戦が終わってからは毎夏シルス・マリアやポントレジーナを訪れていたということです。(私は最近このことをある方を通じて知りました。深く感謝!!)社交界がそのまま移動してきたようなサン・モリッツではなく、あの美しく素朴で暖かなホスピタリティーにあふれたシルスやポントレジーナが、ワルターの心を惹いたことは、彼の芸術を象徴しているように思えます。
 ワルターはこのエンガディンで、多くの音楽家や文人と親しく交友を結んでいます。中でも当時のユダヤ系ドイツ人のエミール・ルートヴィヒとの親交は、特筆に値するものだったといいます。ワルター夫妻は、エンガディンの彼の別荘に滞在し、ハイキングなどを一緒に楽しんだそうです。
 このエミール・ルートヴィヒは一九二九年に「一九一四年七月」というベストセラーとなった本の著者で、第一次世界大戦の開戦の一ヶ月に絞ってドイツ、オーストリアの軍人や政治家たちの発言と行動、心理を描写したその本は、出版の年、ヨーロッパ中に翻訳され多くの人の感動を呼んだ彼の代表作とされています。
 
 ちょっと脱線。ワルターに話を戻しましょう。一九一三年、ミュンヘン歌劇場の音楽監督に就任したワルターは、一九二四年からロンドンのコヴェントガーデン歌劇場でドイツ物の指揮も担当し、一九二五年からはベルリンのシャルロッテンブルク歌劇場、そして二九年には伝統あるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世街道をばく進して行きます。
 しかし、一九三二年、ナチスがドイツ国会で多数派となり、翌年一月ヒットラーはとうとう政権を掌握します。二月末のドイツ国会議事堂放火事件など謀略の末、三月五日の総選挙でナチスは第一党となり、三月二三日には議会政治を廃止し、四月からは、ナチスは露骨なユダヤ人弾圧を開始したのでした。
 アメリカ演奏旅行から帰ったワルターは、三月一六日のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会がナチスの命令で中止させられ、ワルターはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督辞任に追い込まれます。更に三月二〇日のベルリン・フィルハーモニーの演奏会も中止させられ、ワルターは完全にドイツ国内の仕事から閉め出されることとなってしまったのです。ベルリンに赴いていたワルターの身に危険が迫っていました。ワルターは長女のロッテとともにベルリンを脱出。イタリア、スイスなどを経てアムステルダムでメンゲルベルクの代役をした後、ウィーンへと向かうのでした。
 ウィーンに落ち着く間もなく、ワルターはウィーン・フィルハーモニーとの演奏会をはじめロンドンへの客演、そしてザルツブルク音楽祭での八回にも及ぶオペラやオーケストラの指揮に、リーダー・アーベントのピアノ演奏と大いに活躍。ライプツィヒを追われても、ワルターのヨーロッパでの勢いは衰えることは全くなかったのでした。
 一九三四年からはウィーン・フィルハーモニーを振って録音を開始し、あのアイネ・クライネ・ナハトムジークなどの名演を残しています。ワルターの様式を把握する卓越した能力とウィーンの独特の優美なスタイルが、あの独特の美しい音色によって世界中を虜にしたのでした。当時は彼らの演奏するモーツァルトのあまりの儚い美の世界に心酔するあまり、自殺する者が出たという噂まで飛び交ったそうです。真偽の程は不明ですが・・・。
 しかし、彼をライプツィヒから追い出した勢力(ナチス)は、オーストリアにも着々とその手を伸ばしつつありました。ナチスのプロパガンダは巧妙で、オーストリア国内にもナチスの同調者が多数いました。もちろん抵抗勢力もいたことでしょうが。
 一九三六年にウィーン国立歌劇場でワーグナーの「トリスタンとイゾルテ」を演奏中に悪臭を放つガス弾が投げ込まれるという事件も起こり、ユダヤ人のワルターに対するナチスの嫌がらせは日に日にエスカレートしていったのでした。
 この頃、ルガーノの一角に娘のロッテが家を購入しています。スイス、特にティチーノ州はツェルマットやグリンデルワルドのように日本人が押し掛ける観光地ではありませんが、ドイツ人には特に好まれるところで、引退してここに住んでいるというドイツ人はかなりのものでしょう。気候が温暖で、冬も雪に閉ざされることの無いアルプスの南側は、北の国の人々にとって、ゲーテの名作の中でミニヨンが歌う「ご存じですか、レモンの花咲く国」の歌詞の通り、アルプスの南側は永遠の憧れの象徴なのでしょう。
 ワルターがウィーンを去らねばならない時は迫っていました。
 一九三八年一月、ウィーン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第九交響曲の演奏会がウィーンで行われています。親ナチの露骨な妨害の中行われた演奏会は、録音され、私たちはその日のドキュメントを聞くことができます。異様な緊張感に貫かれたその演奏は、深い悲しみと告別の響きにあふれ、聞く者の胸を撃ちます。ワルターの残した演奏の中でも最も感動的な演奏であるこの音楽は、そっくりそのままウィーンへのワルターの告別となりました。
 この演奏会のほぼ二ヶ月後。春まだ浅い三月一二日にその事件はおきます。ワルターの長女ロッテが官憲に逮捕されたのでした。そして翌一三日にドイツはオーストリアを強制的に併合。ワルターはその時、アムステルダムにいました。コンセルトヘボウ管弦楽団に客演していたのです。ロッテ逮捕の報に対して、ワルターとその友人たちは様々に手を回し、ロッテは一二日間の拘留の後、なんとか釈放されます。しかしその間にワルターはウィーンでの地位、国籍、財産の全てをナチスの命により失ってしまったのです。ライプツィヒに続いて二度目の、そして最大の苦難でありました。
 全てを失ったワルターは、ニースを経由し、スイスのルガーノに向かいました。財産も貴重な楽譜も、そして国籍すら失ってしまったワルターは、自伝で「途方に暮れた」という意味のことを書いていますが、当然のことでしょう。パスポートすら無効となってしまい、帰るべき国を持たないワルターはどうすればいいのか・・・。
 この年、ルツェルンではあの国際音楽祭が開催されていました。トスカニーニやブッシュ兄弟たち、ホロヴィッツなどと共にワルターも招かれ、華々しい国際音楽祭で祝祭オーケストラを指揮しています。弦のそれぞれのトップにはブッシュ四重奏団の面々が座り、数々の素晴らしいコンサートが行われました。
 しかし、パスボートのない生活では、スイス以外への演奏旅行には行けません。なんとかモナコ公国の国籍をもらおうとモンテカルロに赴いたりもしましたが、不調に終わり、イタリアやフランス、ロンドンへの演奏に行けず、ワルターはスイスに缶詰状態となっていたのでした。そんな窮状にフランスが手を差しのべます。フランス政府は、ワルター夫妻にフランスの国籍と、フランスのパスポートを提供したのでした。ほぼ八方塞がりの状態でしたから、ワルターはフランス政府に感謝し、この申し出を受け入れたのでした。
 これが、第二次世界大戦が始まる一年前のことだったのでした。スイスにいたワルターでしたが、ここルガーノから、フィレンツェ五月祭やパリへ、そして友人のトスカニーニの招きでニューヨークに客演に赴いたりして、活動を少しずつ軌道にのせていくのでした。
 やっと仕事に集中できる環境が出来たと思った、一九三九年の八月。かねて結婚していた次女のグレーテルが夫に射殺されるという悲劇がワルターを襲います。夫は親ナチであったと言いますが、この殺人事件はナチズムとは関係がないとされています。それにしてもこの悲劇は、家族思いのワルターにはあまりに大きな衝撃でありました。事件以降のワルターの演奏会はキャンセルされ、彼はルガーノの自宅に引きこもってしまいます。ワルターの絶望感はどれほどのものであったことでしょう。グレーテルはモンタニョーラの聖アボンディオ教会の墓地に埋葬されました。
 そして、この二週間ほど後、ドイツはポーランドに侵攻し、ヨーロッパはスイスなどの一部を除いて、戦場となってしまいます。これ以上ヨーロッパに留まれないと判断したワルターはルガーノの家を出て、十月の末、イタリアのジェノヴァからアメリカに向かったのでした。
 戦前から、幾度となくアメリカには客演に訪れていたとはいえ、ヨーロッパと全く異なる文化を持つ異国で、新たなキャリアを築くべくワルターは活動を始めます。メトロポリタン歌劇場や旧知のニューヨーク・フィルハーモニック、それにトスカニーニのオーケストラであるNBC交響楽団、それにロスアンゼルス・フィルハーモニーなどと演奏し、名声を高めます。米コロンビアに行われるようになったレコーディングによって、それは高い名声し全米に広がっていきます。
 しかし、苦しい時代に労苦を共にした妻エルザが、一九四四年の夏、卒中で倒れてしまいます。ワルターは以降仕事をキャンセルし、妻に付き添って手厚く看病しますが、翌一九四五年の三月永眠。もう七〇歳近い労ワルターを悲しみが襲うのです。ナチスによる弾圧、度重なる悲劇が彼女の健康を奪っていったのは間違いないでしょう。少なくとも、戦争さえなければ・・・。それは今となっては言ってもしようがないのかも知れませんが・・・。
 戦争が終わった翌一九四六年に、ルガーノの家に戻ったワルターは、グレーテルのお墓に妻のエルザの遺骨を納めます。チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団に客演したワルターはマーラーの交響曲第四番「大いなる喜びへの讃歌」で、その終楽章の独唱として起用したスイスのソプラノ、マリア・シュターダーをいたく気に入り、以降、ゼーフリートなどと共にワルターの重要な共演者の一人となったことも付記しておきます。
 一九四九年のこと。チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の音楽監督として長年にわたって君臨したアンドレーエが、後任にエーリッヒ・シュミットにその座を譲り、勇退した時に、ワルターは感動的な一文を寄せていることも付記しておきましょう。それから六年。スイスのダヴォスで「魔の山」という小説を書いた、かつての反ナチズムの闘士、トーマス・マンの八〇歳の誕生日の記念演奏会がチューリッヒで行われ、ワルターはトーンハレ管弦楽団を指揮して得意のモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を演奏しています。スイスとの主な関わりはこの位でしょうか。
 ワルターの後半生は、ナチスの翻弄され苦難に満ちたものであったと思います。一九六二年の年があけ、春の声がまだ届くか届かないかの時期に、ワルターはビバリーヒルズの自宅で八五年の生涯を閉じました。そして、その遺骨は「もう一つの家」であったルガーノ近郊の聖アボンディオ教会の墓地に、妻のエルザ、次女のグレーテルとともに葬られたのでありました。今では、長女のロッテもここに眠っています。

 夏の暑い日、ルガーノ駅の反対、山側のバス停からモンタニョーラに向かうバスに乗って終点のモンタニョーラに着いた筆者と家族は、バス停のある広場に面したレストランで早めの昼食をとりながら、店の人に「ブルーノ・ワルターって知ってるか」と尋ねましたが、「知らない」との返事。ちなみに「ヘッセ」と言うと立て板に水というようにイタリア語で出てくる出てくる・・・。そうヘッセはここに長く住み、お墓は来る途中にあった聖アボンディオ教会にあるということでした。これは日本を出る前から知っていたことです。この時、私はまだ、ワルターのお墓が聖アボンディオ教会にあるとは知りませんでした。知っていたのはモンタニョーラの教会に葬られたという、ある雑誌に載っていたことだけでした。
 私と家族はモンタニョーラの教会はどこかと探しました。ある親切な方があそこに小さな礼拝堂(彼女は「ピッコロ・キエーサ」と言った)があるというので行ってみると、おばさんが出てきて、わざわざ鍵を開けて中を見せてくれたのですが、小さな礼拝堂でお墓はない。もちろんワルターのお墓もありませんでした。誰もワルターの名前を知らないなんて、行く時には想像すらしていませんでした。
 ワルター一家は、ヘッセなどに比べれば、ここに住んでいた期間が短いからかとも思いました。ある人に聞いたところ「ワルターは休暇でここを訪れるだけだったので、住民はあまり知らないのだ」と言っていましたが、そうなのかも知れません。
 あきらめかけて、せめてシェック等との交流で知られる、音楽好きのドイツ人作家ヘルマン・ヘッセのお墓くらい見ておこうとモンタニョーラからバスに乗り、聖アボンディオ教会へ。教会から道路わはさんで反対側に大きな墓地がありました。墓地と言えば、私の故郷の代々の墓はうっそうとしげった林にあり、やや薄暗い印象があるのですが、ここはあっけらかんと明るく、広いのが印象的でした。
 夏の日差しが強い、暑い昼下がりでした。私は家族でお墓を見て回ったのでした。しばらく行くと、自然石を使ったヘッセのお墓がありました。ふとその時、モンタニョーラに住んでいたヘッセのお墓があるくらいだから、ワルターのお墓もここではないかと思い、家族で探し始めました。ほどなくして妻の「あったよ、お父さん」の声が。
 行くと、一日探し回ったワルターのお墓にはそこにありました。意外にも小さなお墓でした。悲劇のグレーテルやロッテといった娘とそして最愛の妻とともに、この明るいルガーノの墓地に眠っていたのです。彼は一九三九年のチューリッヒでの悲劇的な事件を決して忘れることはなかったのでしょう。
 前半生の順風満帆の人生に対して、後半生は彼に過酷でありました。しかし常に微笑みを忘れず、「歌って!」と指揮台からねばり強く導いたワルターは、おそらくはそれ故に、深い深い心の歌を私たちに届けてくれたのではないでしょうか。ある人にワルターのお墓参りをして来たと言ったところ、「何をつまらんことを」と言われてしまいました。この人に何を言っても仕方ないのだと思い、返そうとした言葉を飲み込んだ私は心の中で、「そこでワルターの家族とその歴史に触れることができたのだが」とつぶやいていました。
 スイスにおいて、スイス・ロマンド管弦楽団やトーンハレの舞台に何度か立ったとは言え、フルトヴェングラーのように深い関係を築いたのではなかったワルターですが、永遠の眠りを平和で美しいこの国で得たことを、私は心から「良かった」と思っています。本当のワルター・ファンの方、ぜひお花を持って訪れてみられてはいかがでしょうか。ただしここは観光地ではありません。個人の祈りの場所ですので、わきまえた行動をとりましょう。いつだったか、ウィーンの中央墓地で墓石のよじ登って記念写真をとっている明らかに東洋人と思われる若者を見たことがあり、とても恥ずかしく思ったものです。

この項はPOLITOさんのご指摘、ご意見を参考にしながら、いくつかの文献をまとめたものです。POLITOさんに感謝を捧げつつ・・・ (2003/5/末)