コルトーとローザンヌ

 アルフレッド・コルトーはフランスのピアニストです。ショパン弾きとして、また、ドビュッシーなどフランス音楽の最高の演奏家であり、その普及に貢献したことでも知られています。
 多くの今世紀初頭から活躍していた音楽家は、第二次世界大戦を契機に人生の転換期を迎えました。フルトヴェングラーしかり、メンゲルベルクしかりです。ピアニストのコルトーもそうでありました。
 ナチスのパリ入城によりヴィシー政権が生まれ、フランス人は、ナチに加担するか、レジスタンスの道を歩むか、という選択に迫られました。

 良心的文化人は映画「カサブランカ」のように亡命したりしましたが、国内にとどまった者には、等しくそのフィルターがかけられたのです。

 さてコルトーの場合、ナチに加担するという選択をし、戦後、全ての音楽活動を禁じられ、失意の日々をおくることになります。当然、フランス国内に安住の地はなく、そういう音楽家の多くはスイスに逃げて来ています。

 コルトーもまた、ローザンヌに籠もることになってしまいました。それは、彼自身がジュネーヴ近郊のニヨン(古代ローマの遺跡がある古い魅力的な町)の出身であったことも影響しているのでしょう。

 絶頂期にあったコルトーはその後、フランスの国民感情が和らぎ、再び祖国の舞台を踏むことができたので、まだ幸せだったかも知れません。オランダの屈指の名指揮者メンゲルベルクは、再び舞台に立つこともなく、亡くなったのですから。
 しかし、再び舞台に立ったコルトーはかつてのすばらしい音とテクニックを失いつつあったのです。

 それでも、彼が友人のバイオリニストのティボーと共に設立した音楽学校のエコール・ノルマールの公開講座は、最晩年になっても続けられ、そこからは多くの音楽家を輩出しています。
 寂しい晩年ではありましたが、このように多くの傷ついた音楽家を戦後、受け入れてきたのが、このヴォー州、レマン湖畔なのです。

 ローザンヌから列車でパリに通っていたコルトーの目に、あの優しいぶどう畑や、ジュラのなだらかな山並みは、どのように写っていたのでしょうか。

 戦後の一時期、あの辺りには、世界を代表する音楽家というか、今世紀を代表する音楽家がたくさん滞在して、それぞれの黄昏の時代を迎えていたのは、なんとも皮肉な歴史のいたずらのように思えます。
 あの美しい風景の裏側に、戦争に参加しなかった国の中で起こった“戦後処理”の不思議な光景を、あそこを通る度に思い起こします。
 戦争はその国、その時代の文化をも引き裂いていったのです。

 車窓の景色を思い浮かべながら、そのようなことを思ってみました。