古典派初期のジュネーヴの作曲家フリッツ


 レマン湖畔のあの噴水が高く上がる風景で有名なジュネープは、国連の多数の機関が置かれ、赤十字の本部がある国際都市であります。
 市内からすぐに見上げることができるパイの断面のようなサレープ山は市内バスで行くことが出来るジュネーヴ市民の散策の場でありますが、山頂はもうフランス領なのです。地中海に注ぐローヌ川がヴァレーの谷間を流れ下り、この三日月の形のレマン湖(なんとロマンチックな名前なのでしょう!)で一休みして再び流れをとりもどすところに拓けた町、ジュネーヴはフランスに大きく窓を開いたスイスの中でも独特の町であると言えるでしょう。
 ここで一八世紀に活躍した作曲家ガスパール・フリッツがいました。同時代のイギリスの音楽学者チャールズ・バーニーが一七七〇年七月(この年の年末にベートーヴェンがドイツのボンに生まれた)にジュネーヴを訪れ、ここの音楽界について記しています。
 曰く(中世の宗教改革者)カルヴァンの町ジュネープでは新教(プロテスタント)が禁止したために教会にオルガンはなく、聖歌の歌声だけで失望したが、フリッツという良い作曲家兼ヴァイオリニストがいるとのこと。フリッツは当時五四才でしたが、まだ技術の衰えは無かったのか、エクセレント(優秀な, 一流の)ヴァイオリニストとして紹介されています。
 フリッツの父はドイツ北部の町ツェレの出身で一七〇九年にジュネーヴに来て、ヴァイオリン等を教えていました。彼はかなりの名教師だったようでイタリアで活躍した作曲家兼ヴァイオリニストのジョバンニ・バティスタ・ソミスがその門下から出ています。
 さてそんな父のもとに一七一六年にフリッツはジュネーヴに生まれました。フランスではフランソワ・クープランが音楽史上名高い「クラブサン奏法」を著した年であります。そんなバロックから古典派の均整に向う時代に生まれたフリッツは、二〇才までジュネーヴで父の元で音楽修業をし、そして成功を夢見てパリを目指しました。時はクープラン亡き後、ラモーが全盛を誇っていたパリ。ラモーは名著「和声論」をはじめとしてオルガン奏者、作曲家、理論家としてそれこそ八面六臂の大活躍をしていました。彼は和声と鍵盤楽器ならではの技巧を駆使した独特の作風を確立しつつあり、それはフリッツにも大いに影響を与えたことは間違いありません。しかしフリッツのパリ進出は失敗におわります。
 失意の中、ジュネーヴに帰ったフリッツは音楽教師としての活動を始めますが、次第にジュネーヴの上流社会に認められるようになり、文化人のサークルに出入りするようになります。そして一七三八年に父と共に開いた演奏会で大成功をおさめ、ヨーロッパ全域にその名が広まっていくこととなりました。
 フリッツの例えばヴァイオリン協奏曲は、ロカテルリの「ヴァイオリンの技法」に大いにインスパイアされて書かれたといわれます。ここに彼、フリッツの面白さがあります。彼はドイツ人の息子でありながらフランス語を話し、パリを目指すほどフランス文化に惹かれながら、イタリアの様式もその中にブレンドしていくという面白さ。それがフリッツの作品の独特の世界を築いていると私は考えます。
 したがって、その作風そのものがマンハイム楽派などとの共通する、前古典派的な構成力を獲得していたことは、交響曲第一番等から聞くことができます。
 更に彼の六つのフルート・ソナタを聞くと、フランス・バロックのラモー等の様式をもしっかりと身に付けていて、そのスタイルでも作曲されていることに、フリッツという作曲家が生きた時代の過渡的性格をよくあらわしています。リズムの取り方は1拍ずつとるバロックのものです。
 ヴァイオリンの名手であったのですから、彼のヴァイオリン・ソナタなどにも多くの名作が残されていますが、ヴァイオリンはロカテルリの影響を受けていたようで、書法等にかなり共通した部分があるようです。
 ジュネーヴは宗教改革の牙城であり、新教のローマと呼ばれたほどでした。それによってオルガンが廃止され、教会では聖歌の歌声だけであったそうですが、その中でフリッツの音楽は大変もてはやされたようです。
 同時代のジュネーヴには思想家にして作曲もよくするルソーが住んでいたことも付記しておきたいことです。あの「むすんでひらいて」という童謡は彼の作曲になるそうです。しかし歌劇「優雅なミューズたち」や名作とよばれる歌劇「村の占い師」などの作品をはじめ、あのヴィヴァルディの四季の「春」をフルート・ソロ用にアレンジしたものまであり、オセロの中でデズデモーナが歌う「柳の歌」の美しい歌曲まで、その作品は多く残され、この啓蒙思想家が素晴らしい音楽家でもあったこと、そしてその彼がジュネーヴにフリッツと同時代に住んでいたことも併せてここの述べておきたいと思います。