スイス・ロマンド(フランス語圏)宗教改革

 あの噴水が高く上がる風景で有名なレマン湖畔のジュネープは、一九二九年に第一次世界大戦の反省から設立された国際連盟の本部がおかれ、ニューヨークに本部が移った後も国連の様々な機関が、ここの置かれ、第2センターとして活動しています。それだけでなく、ジュネーヴの実業家であったアンリ・デュナンがイタリア統一戦争の惨状に衝撃を受け、戦傷者救済の運動を起こす中から一八六三年に設立された国際赤十字の本部や、国際労働機関や世界気象機関などの本部が恒久的にこのジュネーヴにおかれ、スイス第一の国際都市となっています。
 ジュネーヴがレマン湖の清らかな水のその出口となるローヌ川は、リヨンでソーヌ川と合流して南に向かい地中海に注ぎます。水運にはちょっと急流が多く、ラインのように発展はしなかったものの、シーザーのガリア遠征の拠点の一つとしてその歴史を歩み始めたジュネーヴは、新しい思想に対し寛容であったことから、多くの進歩的な人々がここを拠点に活動をしたことも忘れてはなりません。

 ジュネーヴは温暖な気候により美味しいワインが出来、それもそう高くはないのがありがたいのですが、ローマ人が作った町は美味しいレストランがあるというジンクスはここでも生きていました。旧市街を歩いていると、気取らない、大変美味しいフレンチからイタリアン、中華といったレストランがたくさんあります。食いしんぼの筆者には最高の町ではないかと思った次第・・・。
 
 さて、市内からすぐに見上げることができるパイの断面のようなサレープ山は、市内バスで行くことが出来るジュネーヴ市民の散策の場でありますが、山頂はもうフランス領です。フランス(サヴォアの国)に面している。あるいは囲まれている。この地理的特徴がジュネーヴの性格を形成したと言ってもいいかも知れません。
 今はフランスの一部となったサヴォアは、モンブランの麓のシャモニーに発した、レマン湖南側の国であります。十五世紀にはサヴォア公は、ジュネーヴの司教の選出に強い影響力を持ち、ジュネーヴそのものがシャンパーニュ以上の大きな商業都市に成長したことで、是非この都市をサヴォアに組み込みたいと考えていました。ジュネーヴはしかしサヴォアの介入を排し、十四世紀以来の自由都市としての権限を拡大したいと考えていました。全く逆だったのです。そしてそこに手を差し伸べたのが、軍事大国のベルンでありました。
 一五三六年にフランスとサヴォアが戦争をしている隙をついて、サヴォアの送り込んだ司教を追い出すことについにジュネーヴは成功します。ジュネーヴは独立し共和国となります。ありバイロンの詩「シヨンの囚人」の主人公であるボニヴァールをベルンの軍が解放したのも、この時のことです。モントルー近郊のレマン湖に浮かぶシヨン城には、今もサヴォアによって幽閉された「自由のジュネーヴ」の闘士ボニヴァールの牢が見ることができます。よく見るとバイロンという落書きもあり、本人の落書きとも言われています。有名人ともなると落書きですら大切にされるとは・・・。
 もともと、軍事大国で西方への覇権を目指していたベルンの野心とジュネーヴの独立運動が結びついて、これらの出来事が、起こったものです。カルヴァンがジュネーヴに居を定める四年前、ベルンの領地であったフランス語圏のエーグルの司祭ギョーム・ファレルが、ジュネーヴに送り込まれたのも、そうした西方へのベルンの野心によるものであることは間違いないでしょう。ファレルはカルヴァンの露払いとして、ジュネーヴにおけるミサの廃止の決定をとりつけ、カルヴァンの宗教改革の土台を作りました。そして、この後にカルヴァンがやって来たのです。
 カルヴァンの宗教改革は、徹底したものでした。まるで独裁者のように次々と法令を発布し、城壁を堅牢なものにし、ベーズ、ノックスといったピューリタンの国、スコットランドから呼び寄せた説教者を迎え、神学的に対立した者を火刑にして、厳格なカルヴィニズムとよばれる改革を推し進めたのでありました。
 彼はまたツウィングリなどと同じように、教会から「悪魔のパグパイプ」であるオルガンをなくしました。新教の諸州では教会からオルガンが消えるだけでなく、「説教に集中するため」聖歌の合唱も消え去ったといわれます。また教会の中の宗教画も撤去された結果、新教の教会は実ににさっぱりしたものばかりになったのです。
 芸術においては、これは大きな後退であったと言えます。しかし、表面的な華麗さではなく、精神的な深みを宗教改革はもたらしました。あのマルタンやオネゲルといった重厚なオラトリオや合唱音楽の数々はこうした精神的な背景によって支えられていたのです。
 旧市街にある古い城壁に作られた、巨大な(百メートル以上もある!)宗教改革記念碑には、ファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスという四人の像が中心にあり、あたりに宗教改革の色んな物語がレリーフで描かれています。その前面にベルンの紋章である熊とスコットランドの紋章であるライオンによってジュネーヴの紋章である司教の鍵と皇帝の鷲が描かれています。

 サヴォア公はそれでも、ジュネーヴがあきらめきれず、一六〇二年に奇襲攻撃をします。城壁の窓からはしごをかけて登ってくる兵士を見つけた市民の通報によって、撃退されサヴォアはジュネーヴをあきらめざるをえない状態となります。エスカラード(はしご作戦)と呼ばれる事件でした。今もこれを記念して十二月にジュネーヴでは祭りが行われています。
 新教(プロテスタント)のローマと言われたジュネーヴは、独立した共和国としてスイスと密接な関係を保ちつつ発展して行きます。イギリスの音楽学者チャールズ・バーニーが、一七七〇年七月(この年の年末にベートーヴェンがドイツのボンに生まれた)にジュネーヴを訪れ、ここの音楽界について記しています。曰く(中世の宗教改革者)カルヴァンの町ジュネープでは新教(プロテスタント)が禁止したために教会にオルガンはなく、聖歌の歌声だけで失望したが、フリッツという良い作曲家兼ヴァイオリニストがいるとのことでした。