大思想家ルソーは大音楽家?

 一七一二年六月二八日、ジャン・ジャック・ルソーはジュネーヴに生まれました。母親は彼を生んですぐ亡くなり、叔母のシュゾンが彼を育てました。
 後年、シュゾンの歌ってくれたフランス語の歌によって音楽家を志す最初のきっかけとなったと、彼自身が述べています。「告白」(一七六六年)の中でルソーは「私にとって音楽は恋愛と同様、一つの情熱であった」と書いています。
 彼が生まれたジュネーヴの旧市街は、サン・ピエール大聖堂を中心とした丘の上にあります。ここからギャラリーや時計を売る店、いかにも美味しそうなレストランを眺めてブラブラ下ってくるとレマン湖に出ます。花時計のあるイギリス公園あたりから、高く吹き上げる噴水を眺めて、レマン湖から再びローヌが流れをとりもどすところにかかる橋の途中に、小さな島があります。ジュネーヴの人たちはここをルソー島と呼びルソーの像がおかれています。一八三五年に建てられた像はこの町がルソーを大変尊敬していることの証のように思います。
 さてこのルソーという人は今では、十七世紀から十八世紀にかけて近代市民社会の形成を推進した思想運動である啓蒙思想、その中でも百科全書派と呼ばれる認識論、知識論を代表する思想家として知られていますが、十六才でジュネーヴを旅立ち、アヌシーで救済院に入っています。ここでカトリックに改宗。更にトリノあたりを彷徨っていた時に、軍楽隊の音楽やカトリックの典礼の音楽(そうジュネーヴにはこういったものがなかったのですね)に惹かれ、そしてトリノの宮廷楽団の演奏にも触れ、大いに音楽家への志を強くしたに違いありません。
 その後、アヌシーでヴァランス夫人から歌と音楽を習い、アヌシーの大聖堂聖歌隊員養成所の寄宿生になって、ここの楽長のル・メートルに音楽を学び、ブロックフローテを吹くようになっています。(そうそう、ヴィヴァルディの「四季」をブロックフローテ用に編曲したものがルソーにあり、かつて楽しく聞いた記憶があります。)
 その後十八才でスイスに戻り、ローザンヌに行って、パリの音楽家ヴォソール・ド・ヴィルヌーヴと自称し初めて音楽会を開いたのですが、大失敗。なんだかルソーの青年時代って山師のような観じだったみたいですね。ローザンヌで音楽家として立つ希望をうち砕かれたルソーは、バターをくり抜いたような魅力的な湖畔の町、ヌーシャテルに去って音楽教師をして半年ほど過ごすこととなります。
 そして写譜の仕事をしたり(この後、彼は主にこの仕事で食べています)地籍測量係の仕事をしたり(多才ですね!)した後、ダン・デュ・ミディの麓のシャンペリに落ち着き、なんとか音楽で身を立てようとラモーの「和声学」などを独学で勉強しています。
 一七四二年、ルソーは有名な数字記譜法を考案し、それを持ってパリに行きます。科学アカデミーで認められればとルソーは考えていたようですが、残念ながら・・・。しかし、ここでパリの知識階級の人たちと交流することができたことは大きな収穫でした。
 三十一才の時、このパリでオペラをはじめて見て感激します。そう言えば、ジュネーヴはカルヴァンの宗教改革によって最低限の音楽以外は無く、教会にはオルガンもなく、歌劇も無く、宮廷がないから宮廷楽団もなかったのですね。だから、このパリで見たオペラ・バレエは大変な刺激であったのでしょう。早速自分もオペラを書こうと決意したルソーは、オペラ・バレエ『優雅な詩の女神たち』を書き始めます。秘書の仕事などで中断しながらも、三年かけてこの作品を完成させたルソーは、パリで初めて演奏されます。しかし、時のパリの音楽界を牛耳っていたラモーはこのルソーの作品を酷評。他の人たちには好評だったので、その後再演を繰り返すのですが・・・。
 ラモーはルソーにとって音楽上のライバルであったようです。ことあるごとにラモーはルソーと対立しています。一七四五年に、リシュリュー公の依頼で、ヴォルテール作詩ラモー作曲のコメディ・バレエ『ナヴァールの女王』の改作『ラミールの饗宴』の修正を行い、その年のクリスマスの少し前に上演されるにあたって、ラモーが度重なる嫌がらせわしたそうで、これがもとで、さしものルソーも寝込んでしまうことになったのでありました。
 これがきっかけで、音楽への道は閉ざされたと考えたルソーは、知識人であるデュパン夫人とフランクイユ(化学や博物学に凝っていたといわれている)の秘書となりました。この五年あまりにわたる秘書時代に、ルソーは多くの文献に触れることにより、思想家ルソー、文学者ルソーが改めて誕生することとなります。
 三十六才の頃、ディドロの依頼により、後年有名となる百科全書の音楽の項を執筆していますが、これから彼の芸術論などが世に送り出されます。
 中でも一七五二年に起こったブフォン論争は有名で、この頃、名曲となった幕間劇「村の占い師」が書き上げられていることも注目すべきです。
 一七五二年の夏。イタリアのオペラ・ブッファの一座がパリを訪れ、オペラ座でペルゴレージのオペラ・セリア「誇り高き囚人」の幕間劇として作られた「奥様女中」を上演しました。ラモーをはじめとするフランス宮廷楽派は、このペルゴレージを酷評し、演奏の妨害をしたりしたといいます。リュリ等からの重々しいオペラ・セリアの伝統に対する挑戦だとラモー達は考えたのです。
 これに対して、ルソーをはじめとする啓蒙主義者達はイタリア風のオペラ・ブッファを支持し国をあげての大論争に発展したのでした。新しいイタリア風のオペラ・ブッファは人々の大きな人気を博しこれ以降たくさんのブッファが作られ、ラモー達の宮廷楽派は以降衰退していきます。フランス音楽史における一大転機と呼ばれる論争は、こうして次の時代を作ることとなったのですが、ルソーはこの年の春に書き上げた「村の占い師」を十月にフォンテンブローで初演し、好評を得ます。
 更に翌一七五三年の三月にはパリ・オペラ座で演奏され、大成功をおさめます。しかしまだブフォン論争のまっただ中で、様々な陰謀が渦巻いていたパリでのことです。オーケストラ団員がわざとオペラ・ブッファの上演で失敗させりして、こうしたことにルソーは「同僚たちに宛てたオペラ座管弦楽団員の手紙」を書き、音楽家達を諫めています。
 この後もルソーとラモーは音楽論争を戦わせていますが、それはルソーが一七五五年に書いた「音楽辞典」をめぐるものが有名です。しかし、こうしたことはルソーの「人間不平等起源論」や「新エロイーズ」といった重要な著作を次々と発表していったことに比べれば、些細なことと言わねばならないでしょう。中でも一七六一年に出版された「新エロイーズ」は大評判となり、ルソーの名声を揺るぎないものとしました。
 「エミール」と「社会契約論」に本格的に取り組み、かつてラモーの批判に対する反論として書いた「旋律の原理あるいは "音楽に関する誤謬" への回答」をもとに「言語起源論」を著し、ルソーは絶頂期を迎えます。しかし「エミール」の近代の教育理念を社会批判を含めて鋭く展開したルソーを危険視したフランスの高等法院がルソーに逮捕状を出し、フランスからスイスにのがれることとなります。ジュネーヴも「エミール」の新しい思想を危険としてルソーの滞在を拒否したため、ルソーは数年にわたって各地を転々とすることとなりますが、中でもわずかの間でしたが、ビール湖に近いラ・ヌーヴビルのサンクト・ペーター島(今は運河が出来て湖面が下がったために地続きとなっていますが)のベルンの収税官の家に滞在したことで、ルソーの島として今も有名です。
 半島となったサンクト・ペーター島は、今も習慣からか島と呼ばれていますが、ツェルマットやミューレンのように自動車の乗り入れを禁止しているのどかな田園の広がるところです。翌年からの英国行きの前の休暇だったのでしょうか。今ではその滞在した家はホテルとなって、旅行者を迎えています。
 イギリスで大歓迎を受けたルソーは自伝的小説「告白」の執筆を始めています。ルソーの死後出版されたこの「告白」は我が国の自然主義思想に大きな影響を与えました。
 そんな中でも音楽に対するルソーの情熱は全く消えることなく、「ピグマリオン」を偶然出会った音楽家コワニエとともに完成させて上演したりコランセの作詩による「ダフニスとクロエ」を書き始めたりしています。「ダフニスとクロエ」は未完のまま残されますが、彼は生涯にわたり音楽に対する情熱を失わず、歌劇や宗教音楽などからさりげないメロディーが魅力の百曲以上の歌曲が作られました。
 思想家であり、大変な文筆家であるとともに音楽家としても彼は大きな足跡を残したのです。
 晩年、グルックの「タウリスのイフィゲニア」の上演に対して写譜などで協力したルソーはグルックの音楽に共感。更に「オルフェオとエウリディーチェ」のフランス語版が上演されるに至って何度もこの上演に通い、新たな時代の音楽を吸収しようとしています。そしてその影響でかつての傑作「村の占い師」を作曲し直してまでいるのです。
 ルソーの音楽論は、受け入れられたとはあまり言えないでしょう。数字楽譜やラモとーの批判などが中心ではなかなか特殊な考えという感は免れません。しかし、旋律が心の動きを表現するものとして重視する姿勢は来るべき古典派からロマン主義への音楽のあり方を予言していたと言っても良いのではないでしょうか。
 また、一七六七年に完成した「音楽事典」はルソーの音楽観を知るための重要な書物であるだけでなく、十八世紀の音楽様式を知るための重要な文献であり、音楽学の格好の研究対象となっているのです。
 晩年に至っても、彼は音楽に対して純粋に情熱を燃やし続けました。そして一七七八年七月二日、パリの近郊のエルムノンヴィルにて亡くなりました。
 ルソーはその多くをパリで活躍したという点で、フリッツとは大きく異なります。しかし、徹頭徹尾、彼はジュネーヴ人であったと言って良いでしょう。あの禁欲的なカルヴァンの町で、シュゾン叔母さんが聞かせてくれたシャンソンから、彼は後の世に大きく影響を与えた思想と、美しいメロディーを生み出していったのでだというのは言い過ぎでしょうか。残された音楽のほとんどが歌曲と歌劇であったことがそのことを象徴しているように私には思えるのですが。