戦前のフルトヴェングラーとスイス

 フルトヴェングラーがデビュー直後、スイスのトーンハレで修行時代を過ごしていたことは、あまり知られてはいません。が、オルセンの演奏会記録を見ていると、この時期、チューリッヒでプフィッツナーなどとともに、レハールの喜歌劇「メリーウィドー」などを振っています。何日も同じものを振っているので、通常公演の指揮を任されていたものと思われますが、どんな「メリーウィドゥー」だったんでしょうね。

 フルトヴェングラーが、戦前のスイスに演奏旅行で立ち寄ったのは一九二三年のライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のスイス・ツァーの時でした。四月二十五日と翌二十六日にベルンで、更に二十七日と二十八日にチューリッヒ、そして二十九日と三十日がバーゼルという強行軍で、直前に最初の結婚をしており、公私ともに充実していたのでは無かったでしょうか?
 更にその翌年、一九二四年には、ニキシュの後を継いで音楽監督に就任したばかりのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共に五月始めから、ザンクト・ガレンを皮切りにベルン、ローザンヌ、ジュネーヴ、ヌーシャテル、バーゼル、チューリッヒ、そしてまたベルンというこれまた休み無しのハード・スケジュール(当時はこんなものだった)で演奏旅行をしています。 翌一九二五年にもベルリン・フィルのヨーロッパ・ツァーの途中、バーゼルでブラームスの第二交響曲やベートーヴェンの「運命」などを演奏していますし、一九二六年のベルリン・フィルのヨーロッパ・ツァーでもチューリッヒとローザンヌでベートーヴェンやブラームスといった、得意のレパートリーを演奏しています。

 更に翌一九二七年にも、チューリッヒ、ベルン、バーゼルといった所に立ち寄り、一九二八年にはルツェルン、チューリッヒ、ジュネーヴにバーゼルという具合です。
 一九二九年には、ジュネーヴ、モントルー、バーゼル、フリブール(フライブルクかどうか不明)、チューリッヒ一九三〇年にはジュネーヴとチューリッヒ、一九三二年にはチューリッヒ、ヴィヴェイ、ジュネーヴ、バーゼル、一九三三年はジュネーヴ、バーゼル、フリブール?、チューリッヒという演奏旅行も行われています。

 一九三四年チューリッヒでただ一度だけの演奏会となりますが、翌一九三五年にはルツェルン、バーゼル、チューリッヒと三都市で演奏会がもたれています。

 一九三五年はシーズンをフルトヴェングラーがキャンセルしてしまったため、ツァーも縮小したのか、スイスにはやって来なかったのですが、翌一九三六年には、彼のピアノと管弦楽の為の交響協奏曲がスイスの名ピアニスト、エドウェン・フィッシャーの共演にて初演(一九三七年十月二十六日ミュンヘン)更に、一九三八年五月五日にチューリッヒへ。

 同月十二日から十四日の三日間、チューリッヒ歌劇場に客演してベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」をトーンハレ管のオーケストラと共にやって、意気投合したのか、翌一九三九年には、チューリッヒ歌劇場に客演、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」や「ワルキューレ」といった大作を振ったのち、ワーグナーが不倫の恋の内に過ごした、チューリッヒのヴェーゼンドンク邸でトーンハレ管と大歌手フラグスタートと共に、当地で生まれた「ヴェーゼンドンクによる五つの歌」を演奏しています。(ああ、聞きたかった!)

 この一九三九年の冬のシーズンには(今まではほとんど五月の始めから六月にかけてのツァーだった)十一月ヴィンタートゥーア市立管弦楽団、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団に客演、翌一九四〇年にもこの二つのオーケストラに客演して関係を深めています。

 一九四一年のシーズン当初にもチューリッヒ・トーンハレ管に客演、その後、ベルン管弦楽団にも客演している事実にも注目したいと思います。この一九四一年のシーズン終わりのいつもの六月には、ベルリン・フィルとベルン、ジュネーヴ、ローザンヌ、チューリッヒに手兵を携えて演奏旅行していますが、その途中、チューリッヒ歌劇場で、ワーグナーの「神々の黄昏」を演奏していることも注目して良いと思われます。

 更に一九四三年の一月、ヴィンタートゥーア市立管、チューリッヒ・トーンハレ管、ベルン管といったところに単身、客演に行っていますし、翌一九四四年の一月には、スイス・ロマンド管弦楽団とでローザンヌ、ジュネーヴでベートーヴェンやその頃スイスに居たリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品を演奏しています。更にその足でベルンのオーケストラを振りに行っています

 この年、初めてルツェルン音楽祭にも参加、祝祭管弦楽団を振っています。この録音は残っているはずなのですが、残念ながら私は聞いたことがありません。市場に出てきたことがないのかも知れません。

 本来は一九四五年の二月にもチューリッヒ・トーンハレ管を指揮する契約となっていたのですが、一月のスイス亡命で、それはキャンセルされることとなったのです。

 彼は、旅券なしでスイスとドイツの国境を越えたそうで、その時の国境の係官が恐らくは音楽好きでフルトヴェングラーのファンだったために越えられたのではないか、ということを、後年フルトヴェングラーは語っています。

 それはスイスでの多くの演奏活動を行ってきた結果ではないでしょうか。