シェックとブルンネン

 ブルンネンの白鳥亭というホテルにワーグナーに会うためバイエルンの皇帝ルードヴィッヒが泊まったことは有名です。大変風光明媚な町で、グラールス・アルペンへの玄関口ともなっています。
 また、スイス建国の地、リュトリに近く、ウィリアム・テルの物語で代官のゲスラーのいた処がブルンネンです。そこから船で十分位でリュトリの丘です。 
 この辺りはもの凄く高い山があるわけでもないので、外国人の観光客は少ないようです。しかし昨年、リュトリに始めて行った時、そこには随分たくさんの家族連れが、ピクニックに来ていました。
 ここブルンネンに一八八六年九月一日、作曲家オトマール・シェックは生まれました。十四才でチューリッヒ音楽院に行くため、この地を離れはしましたが、シェックはこのスイスの田舎町を、本当に愛していました。

 それは、彼の作品の多くが、この地方を巡る素材、あるいはテーマによることでも理解できます。

 チューリッヒ音楽院卒業を間近にしたシェックは、シュトゥットガルトでドイツ・ロマン派後期の重要な作曲家の一人、マックス・レーガーに会っています。
 そこでシェックの歌曲の素晴らしさに心を打たれたレーガーから「ライプツィッヒに来て自分の弟子になりなさい」と言われたシェックはライプツィッヒの王立音楽院で一九〇七から一九〇八年の間、学んでいます。そして、チューリッヒに戻りずっとその地で亡くなるまで住んでいました。

 最初は男声合唱団の指揮者として、後にはザンクトガレンのオーケストラの指揮者として主な収入を得ていたのですが、生来の芸術家気質といいますか、いわゆる市民生活に適合し難い性格だったようです。
 女性とも何度も恋愛しては振られ続け、名曲「ヴァイオリン協奏曲」も、そんな不幸な恋愛の結果生まれてきた作品でありました。
 なんだか、ベートーヴェンの場合に似ていなくもないですね。

 リュトリの丘からはブルンネンの町が遠く望めます。そんなところで一二九一年、ウリ、シュヴィーツ、ウンターワルデンの原三州の代表がここで「リュトリの誓い」をし、それをもってスイス建国とすることになっているそうです。
 その日が八月一日というのは、きっと後できめたことなのかも知れませんし、そう単純なものでもなかったのでしょうが、盟約は今も生き続けていることに変わりはありません。

 少し脱線してしまいました。しかし、ロッシーニが作った歌劇「ウィリアム・テル」の舞台でもあり、ワーグナーとルードヴィッヒ皇帝の物語などが、このブルンネンを巡って展開されていることと、シェックが最後まで前衛と折り合いをつけられず、国際的な舞台で華やかに活躍することなく、スイス国内での活躍に止まったのは、音楽、特に作曲の分野での前衛の位置づけが、二〇世紀半ば過ぎまで大変大きなものだったことにもよるでしょう。
 今では、そういったことが、音楽の評価の基準になどはなりはしないことは、みんな知っているわけですがねぇ。

 自然を愛し、ロマンチックな感性と歌曲に対する見事な適性を併せ持つということは、器楽中心、大編成の管弦楽中心の二〇世紀は随分暮らしにくかったでしょうねぇ。でも、近頃復権の兆しがあるようで、うれしく思っている次第です。