19世紀から20世紀初頭にかけてのスイスの音楽
Emile Jacques Dalcroze
 フランス語を話す州であるヴォーやイタリア語を話すルガーノやロカルノといったテッシンがスイスに加わったのは一八〇三年のこと。ジュネーヴがスイス連邦に加わったのは一八一五年のことで、ヌーシャテルやヴァレーの谷の村々と共にスイスになったのでした。

 それでも圧倒的にドイツ語を話す人たちがスイスの多くを占めていたことは間違いありません。したがって一九世紀、スイスの音楽家たちがドイツに向かっていったことは想像に難くありません。

 スイスの作曲家として最初に成功したヨアヒム・ラフがチューリッヒ湖畔の町ラーヘンに生まれて、ほとんど独学で音楽を学び、ラッパーツヴィルで教師をしながら作曲をし、メンデルスゾーンに作品を送ってプライトコップフという音楽出版社を紹介され、音楽家として生きる決心をし、リストについてワイマールに赴き、そこでリストの助手のような仕事をしてから、ヴィスバーデンでピアノ教師をしながら作曲をし、フランクフルトのホーホ音楽院の院長として亡くなるまでその地位にいました。
 彼は一八二二年の生まれですが、一八五二年エッペンベルクに生まれたハンス・フーバーはライプチヒ音楽院に留学し、ライネッケ他に師事したのち、スイスに戻り、バーゼルの音楽院の先生をしながら作品を残しました。
 更に一九世紀も終わりに近づいた一八七〇年にはアールガウ州のカイザースチューブルに生まれたヘルマン・ズッターもバーゼルの音楽院でフーバーたちに学んだ後、師フーバーと同様ライプチヒの音楽院で、更にシュトゥットガルトの音楽院でも学び、二十二才の時にスイスに戻り、オーケストラの指揮者として、そして作曲家として活躍しました。
 チューリッヒのトーンハレ管弦楽団の初代指揮者として有名なフリードリッヒ・ヘーガー(一八四二年生まれ)、同楽団を大きく発展させたフォルクマール・アンドレーエ(一八七九年生まれ)、ベルン交響楽団の指揮者としてだけでなくスイスに住んだドイツの文豪(大変な音楽好きだった)の親友でもあったフリッツ・ブルンもいます。彼は優れた作曲家でありピアニストでもありました。
 これらの音楽家たちは、スイスのみならず、ヨーロッパで高い名声を得たのであります。フォルクマール・アンドレーエの指揮したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏はレコードに残されて今も聞くことができます。
 彼らは作曲家として数多くの作品を残してもいます。ドイツ・ロマン派の影響を色濃く受けた作品は今日ではほとんど忘れられていると言えます。しかしながら、スイスの作品を熱心に紹介しているスイスのレーベルで一部を聞くことが出来、ズッターの代表作とされる「アッシジの聖フランチェスコの太陽の賛美歌」を聞いてみると、忘れ去られるにはあまりに惜しい美しい音楽だと思います。
 ヘッセがその音楽能力のあまりの高さに驚いたというフリッツ・ブルンの交響曲第二番を聞いてみると作られたのが一九一一年ということから想像できる近代的なスタイルというよりも、大変美しいメロディーで彩られた大変保守的な内容で、当時すでにイーゴル・ストラヴィンスキーがスキャンダラスな作品を発表し、ドビュッシーもその活動の終わりに来ていたのですから、調性をかたくなに守った保守的なこの交響曲がスイス好きの私のような者の目にとまっても、一般には忘れ去られてしまったのも仕方ないことかも知れません。
 しかし、彼らの多くが指揮者であったことからもわかるように、ネーゲリの残した合唱運動のあと、スイスの人たちはオーケストラも聞くようになっていったのです。
 そしてフランス語圏スイスに偉大な音楽家が生まれます。一八六五年に生まれたエミール・ジャック・ダルクローズです。
 音楽教育に関わる人で彼の名前を知らない人はいないでしょう。リトミックの理論をうち立て、音楽教育の世界に革命をもたらした偉人であります。彼の門下にはあのフランク・マルタンがいます。自身、優れた作曲家でもあったダルクローズですが、今日ではもっぱら音楽教育家として知られているのみです。
 彼は、一才年下のグスタブ・ドレとともにネーゲリの残した新民謡運動が生んだ作曲家であったと言われます。新民謡とは、伝統的な民謡のスタイルにこだわらず大衆の好みに合わせて歌を作るということですが、まぁひらたく十九世紀のポピュラー音楽であると言えば良いと思います。
 リストが住み、ジュネーヴ音楽院はスイスで最も古いものですが、ドイツ語圏のスイスに比べやはり音楽的には未発達であったフランス語圏スイスですが、ある偉大な才能によって二〇世紀の発展を切り開かれることとなります。その人の名はエルネスト・アンセルメ。彼について、そして彼以降のスイスに音楽については別項で・・・。