皆さんはじめまして

 

今回この様なホームーページを作るに至ったいきさつは、たまたま建中寺を散策していて奥の方に有る瓦礫を発見した事です。最初はなんだか分からなかったのですが良く調べてみますと建中寺の奥(現在 東中学と公団住宅、東海中学の運動場)の辺りは昔 尾張徳川家の一万坪とゆう広大な墓地敷地だったそうで、その瓦礫は徳川家の墓石の一部だという事が分かりました。(昭和29年に都市計画法により接収され定光寺徳川家墓地へ移転した)

そこでちょっと調べてみますと尾張徳川家歴代藩主の墓碑が平和公園に有ったり小牧山に有ったりと散逸している事が分かりました。(初代義直ー定光寺、 七代宗春ー平和公園、 九代 宗睦ー小牧山 その他の当主の墓碑は何処に在るのか分かりません。もし知っている方はメールにて教えてください)

名古屋市は良くも悪くも尾張徳川家によって明治まで発展してきた町です。そのルーツといえる歴代藩主の墓碑さえも破壊もしくは散逸させてしまったとゆうことに憤りを感じこのホームページを作りました。

いろいろな御意見、御感想、また間違い等の指摘を頂けたら幸いです。

MAIL RD3T-MW@asahi-net.or.jp

参考までに歴代藩主表をつけておきます。

歴代藩主
 
藩主
    官位・通称
    出自(実父・嫡出関係)
  
初代
    徳川(尾張)義直(よしなお)
    従二位 権大納言 徳川家康の九男

二代
    徳川(尾張)光友(みつとも)
    従二位 権大納言 徳川(尾張)義直の長男

三代
    徳川(尾張)綱誠(つななり)
    従三位 権中納言 徳川(尾張)光友の長男

四代
    徳川(尾張)吉通(よしみち)
    従三位 権中納言 徳川(尾張)綱誠の九男

五代
    徳川(尾張)五郎太(ごろうた)
    生前はなし 贈従三位 徳川(尾張)吉通の長男

六代
    徳川(尾張)継友(つぐとも)
    従三位 権中納言 徳川(尾張)綱誠の十一男、十三男とも

七代
    徳川(尾張)宗春(むねはる)
    従三位 権中納言 徳川(尾張)綱誠の十九男、二十男とも

八代
    徳川(尾張)宗勝(むねかつ)
    従三位 権中納言 徳川光友の四男川田久保家松平但馬守友著の長男。美濃高須藩主松平義淳と    なり、さらに尾張宗家を継ぐ。

九代
    徳川(尾張)宗睦(むねちか)
    従二位 権大納言 徳川(尾張)宗勝の二男

十代
    徳川(尾張)斉朝(なりとも)
    正二位 権大納言 一橋治済(はるさだ)の三男一橋治国の長男。(一橋治国は将軍家斉の弟)

十一代
    徳川(尾張)斉温(なりはる)
    従二位 権大納言 将軍徳川家斉の十九男

十二代
    徳川(尾張)斉荘(なりたか)
    従二位 権大納言 将軍徳川家斉の十一男(十三男、十四男とも)。御三卿田安家を継ぎ田安斉荘とな    るが、尾張藩主に。

十三代
    徳川(尾張)慶臧(よしつぐ)
    従三位 権中納言 田安斉匡の七男

十四代
    徳川(尾張)慶勝(よしかつ)
    従二位 権大納言 美濃高須藩主松平(尾張)義建の二男

十五代
    徳川(尾張)茂徳(もちなが)
    従二位 権大納言 美濃高須藩主松平(尾張)義建の五男 初め美濃高須藩主松平義比となり、尾張宗    家を継ぎ、隠居後さらに一橋家を継ぐ。

十六代
    徳川(尾張)義宜(よしのり)
    従三位 左近衛権中将 徳川(尾張)慶勝の三男

十七代(再勤)
    徳川(尾張)慶勝(よしかつ)
    従二位 権大納言 美濃高須藩主松平(尾張)義建の二男

 

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