音楽の遊び ハ長調 K.516fの演奏法と作曲の背景

本稿は音楽現代1987年11月号掲載の論文を、Mozart - Musical Game in C K. 516f, in: Mitteilungen der ISM 38 (1990), Heft 1-4, p.89-101との整合性をとり一部修正したものである。

18世紀後半から19世紀前半にかけて、ヨーロッパの各都市では《音楽のさいころ遊び》と呼ばれる音楽遊びが流行し、各種の楽譜が出版されている。出版者の謳い文句は共通して、作曲の技術や法則を知らない素人でも無数の曲を作ることができるというものである。数選びのために指定されている道具は1つから3つまでのさいころ、あるいは6面か9面のこまが多く、中には数字表なしに楽譜表から直接選ばせるものも見受けられる。曲の形式は少数の例外を除いて、メヌエット、コントルダンス、ワルツなどの舞曲かマーチである。声部数は少なく、楽器指定なしの単旋律かクラヴィーアのための二声、さもなければトリオ構成の三声がほとんどである[1]

モーツァルトの名前で出版された《音楽のさいころ遊び》も数種類あり、ケッヒェル第6版(第8版も同じ)ではK.Anh.294d=K.Anh.C30.01の番号で一括して扱われているが、それらはすべて偽作である[2]。しかし、実は、モーツァルト真作の《音楽のさいころ遊び》が別に一曲存在しており、現在パリ国立図書館にMS253の番号で自筆譜が所蔵されている。ケッヒェル番号はK.Anh.294d=K.516fであるが、モーツァルトの全自作品目録には記載されていない。この曲は永らく出版されなかったが、1986年日本で、ファクシミリが初めて紹介された[3]

この一葉には、上二段に「弦楽五重奏曲 卜短調」K.516の第3楽冒頭6小節がクラヴィーア譜で[4]書かれており(こちらを仮におもて面と呼ぶ)、その下6段とうら面の7段にハ長調の単旋律の断片K.516fが走り書きされている。モーツァルトは各面の冒頭に書き記した2小節動機のあとを、いかに続けるか選択できるように多くの2小節旋律(一部1小節のものもある)を並べ、各面最終段にはその解答例を記したものと思われる。しかし、小文字・大文字のアルファベット、あるいは数字の1、2が2小節単位に付いているものの、どのように選択するかの指示がないため、この《音楽の遊び》の解釈については従来何ら報告されることがなかった。

この論文では次のことについて考察する。(1)アルファベットの意味、(2)モーツァルトの解答例の導き方、(3)数字1、2の意味、(4)作曲時期、(5)誰のための曲、そして(6)音楽遊びの演奏法。

我々はおもて面、うら面と仮に呼んだが、ニッセンはおもて面にVon Mozart und seine Handschriftと書き、ケッヒェル第6版はうら面の曲首を採用している。いずれが表、裏なのだろうか? とりあえずおもて面の方から解読にかかってみよう(清書譜)。

冒頭2小節に続いて2小節毎に24の小文字のアルファベットがjとxを除いてaからzまで付され、更に14の大文字がA、E、I、O、U、C、H、J、R、V、X、Yを除いてアルファベット順に付されている。勿論モーツァルトはアルファベットが26文字であることを知っていたから[5]、必要ない文字を故意に抜いたものと思われる。例えば、Qのところが元Sと書かれていたように見えるから、Qは是非必要な文字ということになる。j(J)が無いのは、j(J)がI(I)の子音形であるため例えば、Joseph II.は当時Ioseph II.と書かれていたことと、現在でもケッヒェル番号にjが無いことから理解できる。しかし、x(X)が無いことはこのようなことからは説明できないし、大文字の殆ど半分がすべての母音を含んでモーツァルトの目的に不要であった理由も分からない。ただ、次のように抜かれている図式が解決のヒントとなるかもしれない。

_ _B _ D _ F G _ _ K L M N _ P Q _ S T _ _ W _ Z

以上のアルファベットは、モーツァルトによる何らかの規準で決められたということに、ここではしておこう。ファクシミリに見るようにaからPまでのアルファベット文字は各々下の段の音符の上に重なってはいないが、Q、T、Zは一部音符の上に重なっていることから以下の順序が推定される;(1)モーツァルトは3段目から7段目までの音楽を先ず記入した、(2)aからZまでのアルファベットを記入。このとき下の段の音符に文字が重ならないように気を付ける、(3)8段目に例題を作曲。Q、T、Zは一部五線の上にかかってきていたが避けるわけにいかないので、音符と重なる結果となった。さて選択され、8段目に並べられた小節対は、第3・4小節目がf、第5・6小節目がaなどとなっており、順にfanciSと読める。筆者はこの単語の意味を読みとるのがキーであると考え、次の案を検討した。(1)FANCI[E]S(英語)、(2)FANCI[ULLE]S[CA」(イタリア語)、(3)F[R]ANCIS、そして(4)F[R]ACIS[CA]である。英語を候補に挙げたのは、モーツァルトが1787年3月迄に英語の勉強を始めていたからであり[6]、音楽の遊び方が"secret and pure fancy"であることを暗示しているのかもしれないからである。Fancyは十六世紀のイタリアのファンタジアを起源とする曲で、音楽のさいころ遊びの曲形式として採用されたこともある[7]。そしてFanciullescaはcon fanciullesca ingenuitàの様に使われるので、「子供のように無邪気に」音楽遊びをすることを暗示しているのかもしれないと思われるのである。しかし、筆者はFrancisかFranciscaのいずれか、しかもモーツァルトの知り合いの人名ではないかと考える。

おもて面の音楽は構成上やや貧弱である。休符、和音、終止形それに複縦線がどの小節対にも見あたらない。休符や終止形は音楽に不可欠のものであるから、モーツァルトはおもて面では曲を完成させるつもりはなく単に「結合術ars combinaroria」の可能性をチェックしただけと考えられる。またこのおもて面は他人のさいころ音楽のコピーで、モーツァルトはそれをより複雑に展開しようとしていたのではないかと疑う向きもあるかもしれない。しかし、他人のオリジナルから休符、終止形、複縦線をモーツァルトが書き写さなかったとは考えにくいため可能性は極めて薄い。

うら面おもて面と比べるとメロディ、リズムが幾らか多様で、スラーも多く、休符、和音それに終止形が初めて出てくる。各小節対はおおむね複縦線で明確に区切られている。アルファベットの代わりに1と2が交互に付けられており、途中で順序を間違えたモーツァルトが訂正しているところも2箇所見受けられる。また、解答例のところでもモーツァルトは訂正している。ある選択規準によって訂正していると思われるのだが、1と2からどうやって選択するのだろう。ここでわれわれはモーツァルトの知り合いの名前がキーであろうという仮定を思い出してみよう。ということは即ち、ここでもまたアルファベットが必要となってくる。最初の1・2にa、次の1・2にbという具合に付けていってみよう。おもて面と同様jとxは抜いてみる。すると、ちょうど24のアルファベットが必要なためzで終わることが分かる。これを清書譜に記入した。モーツァルトの選んだファクシミリ7段目の解答例を読んでみよう。

f1 r2 n1 c2 i2 s2 c1 a2

その名前はフランチスカであったことが判明するのである。

では、おもて面では何故FranciscaがFancisになってしまったのだろうか。FancisはFranciscaのニックネームだったのだろうか。否、そうではなく、筆者は次のように考える。(1)rが脱落したのはモーツァルトのケアレス・ミス、(2)caが脱落したのはc、aが既に使用されており、重複使用を認めない規則となっていた、(3)重複使用を避けるため大文字を準備していたが生憎CとAは除外されていた、従って(4)おもて面の音楽はそれ以上進めないため見捨てられた稿であり、うら面の音楽が書き改められた新しい稿である。

うら面では同じ文字が重複して表れることを念頭に置いて、同一のアルファベットに1と2の二種類の選択枝を与えるように改良された。なお、最後の二つの小節対(=z1,z2)はハ長調の終止形として用いられることを意図していると思われる。小節の選択には次のような規則を適用したものと考えられる。

規則1=名前をアルファベットで書き最後にzを置け。

例 franciscaz

規則2=文字をアルファベット順に並べ変えよ。

例 aaccfinrsz

規則3=同じ文字が重複しているときは、二つ目以降はグループを分けて+で区切った後へ並べよ。

例 acfinrsz+ac

規則4=各文字に順に1、2、1、2……を添えよ。+の後の文字には前のグループで付けた添字と異なるものを与えよ。これは音型の重複を避けるためである。

例 a1c2f1i2n1r2s1z2+a2c1

規則5=元の綴りに戻せ。

例 f1r2a1n1c2i2s1c1a2z2

この規則によって選んだ解答と、モーツァルトの選んだ解答とは御覧のようにsの添字が異なっている。これは、規則を柔軟に適用し、もっと良い結果を調整してよいことを暗示していると思われるが、音楽的にs1とs2のいずれが正しいか判断は難しい。

g1に当たる2小節は 譜例 に示すとおり《ドン・ジョヴァンニ》K.527のツェルリーナ「薬屋のアリア」の冒頭と類似している。g1が先行するf2の連想から出ていると思われることから、この曲はK.527より先に書かれたと考えるのが妥当であろう。また、おもて面のK.516のクラヴィーア譜は、弦楽五重奏曲を作曲するためのスケッチではなく、新モーツァルト全集が示唆しているように弦楽五重奏曲からの抜粋である可能性が高いとすれば[8]、フランチスカはモーツァルトのピアノの弟子だったのではないかと思われる。―この抜粋は弦楽五重奏曲のクラヴィーア編曲版を彼女に贈るという約束を意味しているのだろうか。あるいは、既に彼女に贈ったクラヴィーア編曲版の訂正部分(第2・3小節のヴァイオリン相当部分が五重奏版と若干異なっている)を抜粋したのだろうか。しかし、上記のことから今言えることは次のことだけである。即ち、K.516fの書かれたのは恐らく1787年5月16日(K.516の日付)から同年10月28日(全自作品目録におけるK.527の日付)の間であろう。もし、フランチスカという名前がSt. Joanna Francisca de Chantal(1572-1641)に因んでいれば、その霊名祝日の8月21日の前に絞る考えもあろう。

この時期のモーツァルト周辺のフランチスカを捜すのはそう難しいことではない。1787年6月28日にモーツァルトの記念帳にラテン語の詩を記入したFranc. Cajetan a Ployerがかつて、Francisca Cajetana Ployerという女性と思われたこともあったが[9]、実はFranz Kajetan Ployerという男性であることが判ったので除外できる[10]。すると、残るはフランチスカ・フォン・ジャカン(1769-1853)一人だけである[11]。彼女の父は有名な植物学教授である男爵ニコラウス・ヨーゼフ・フォン・ジャカン(1727-1817)であり、兄のゴットフリート・フォン・ジャカン(1767-1792)とモーツァルトは1787年には少なくとも4回手紙を交わしている。兄妹は共にモーツァルトの弟子であった[12]。ジャカン家のためにモーツァルトは多くの家庭音楽を作曲したことが知られている。その主なものを挙げると次のとおりである。

(1)六つの重唱曲 K.439、K.438、K.436、K.437、K.346=439a、K.549、それに「リボンの三重唱」K.441はヴィーンにおけるモーツァルト家とジャカン家との親密な交際の中で、1783年から1788年の間に書かれた。これらの曲はモーツァルトの生前には出版されず、ゴットフリートとその友人のサークル以外には全く知られていなかったようである[13]

(2)ピアノ三重奏曲 K.498、四手のためのピアノ・ソナタ K.497は、恐らくフランチスカが弾くために1786年8月に作曲された。三重奏曲はジャカンの家で、ヴィオラをモーツァルト、クラリネットをアントーン・シュタードラーが受け持って演奏している[14]

(3)フルート四重奏曲 K.298は1786年の末(あるいはそれ以後)に作曲された。第1楽章の変奏曲のテーマはホフマイスターの歌An die Naturに似ているが、恐らくゴットフリートにより教えられたものと思われる[15]

(4)バスのためのアリア K.513はバスを上手に歌うゴットフリートヘの贈り物として1787年3月23日に作曲された。その声の音域はそう広くはなくAから一点esまでである[16]

(5)二重カノン K.228=515bはヨーゼフ・フランツ・フォン・ジャカンの系譜帳(1787年)に含まれており、英語で「ヴィーン、1787年4月24日。おまえの忠実な友を決して忘れるな。ヴォルフガング・アマデ・モーツァルト作曲」と献呈の辞が記入されている[17]

(6)歌曲 K.520は1787年5月26日にヴィーン、ラントシュトラーセのゴットフリートの部屋で作曲、歌曲 K.530は1787年11月6日にプラーハで彼のために作曲。両者共1791年3月26日(モーツァルト存命中)にゴットフリートの名前で出版された。恐らくモーツァルトの許可を得ていたものと思われる[18]

(7)四手のためのピアノ・ソナタ K.521は1787年5月29日に作曲され、ゴットフリートへの手紙を付して送られたが、その中でモーツァルトは、この曲は少し難しいのでフランチスカにすぐとりかかるように伝えてほしい旨書いている[19]

(8)バスのためのアリア K.621aはモーツァルトが1787年10月15日と11月4日の手紙で述べているアリアと同一と考えられるため、この年プラーハでゴットフリートのために作曲されたものであろう。しかし、1791年説も捨てきれず、コンスタツェ・モーツァルトはこの曲をモーツァルトの曲ではなく、ゴットフリートの曲であるとしている[20]

うら面のファクシミリをよく見ると、6段目と7段目の間に横方向に、また、左から三分の一ぐらいのところに縦方向に、それぞれ折り目の跡が見られる。この五線紙は現状は8段であるが、下の方が切り取られた状能になっている[21]。元は何段の五線紙であったのだろうか。筆者は、五線の印刷の左端が示す不揃いに注目した。例えば、第1段の1本目は他の4本より左へ飛び出しているが、第4段の1本目は右の方へ引っ込んでいる、といった具合である[22]。この方法により「二つのホルンのための12の二重奏曲」K.487=496aの12段五線紙が同一タイプの用紙でないかと推定される[23]

より詳細な確認により、この紙には特定の寸法、形状を持った3つの月のすかしがあり、モーツァルトが12段で常用していた紙のタイプと同一であることが判明した[24]。元が12段であったとすれば、6段目と7段目の間の折り目というのは、二つ祈りにするための折り目であり、切断する前につけられたものであると考えるのが妥当である。インクの滲みや、ペンの逃げが折り目の上にないことを考慮に入れると、事象の順序は次のようになろう。

(1)おもて面にK.516のクラヴィーア譜を書く。

(2)おもて面に《音楽の遊び》K.516fの初期版を作曲するが、見捨てる。

(3)うら面に《音楽の遊び》K.516fの改良版を作曲する。

(4)上下に二つ折り、左右に三つ(二つ?)折りにする。

(5)8段を残して下4段を切り取る。

何故、五線紙は折られたのだろうか。何故、下の4段は切り取られたのだろうか[25]。これらの疑問に答えることは、残念ながら不可能であると言わなければならない。

演奏方法について触れておこう。うら面最終段の作曲例は単旋律の曲であるが、声楽で歌うことを意図したとは思えない。声楽であれば、ト音記号でなく、ハ音記号あるいはヘ音記号で書いたであろう。また、カノンとして演奏する構成にもなっていない。実際の演奏は、ピアノで弾いて、その際左手は即興で和音をつける、ということになろう。もし、名前の中にxがある場合は、chsなどで代用すればよい。また、Nannerlのように同じアルファベットが3回以上現れた場合は、規則4の+を更に増やせばよい。しかし、これらはおそらくモーツァルトの意図ではないことに注意すべきである。

《音楽の遊び》K.516fの遊び方については、既にほとんど説明してしまった。最後に、もう一つだけ付け加えておきたいのは、モーツァルトが名前遊びに対して興味が旺盛であったことを証明する事実である。1787年1月15日のゴットフリートあての手紙を見てみよう。モーツァルトとその仲間は、ヴィーンからプラーハへ旅行する道中、片っ端から知りあいの名前を挙げ、あだ名をつけたと述べている[26]はそのリストである。

モーツァルトはこの名前遊びをK.516fの作曲時に思い起こしたに違いない。否、言い換えれば、これらの名前とあだ名(勿論、音楽的には何の意味もないが)がモーツァルトに《音楽の遊び》K.516fを作曲するアイデアを与えたかも知れない。手紙と作曲の間に4か月以上あるが、モーツァルトの記憶力にとっては問題とはなるまい。カノン「親愛なるフライシュテットラー君、親愛なるガウリマウリ君」K.232=509aはの名前とあだ名を使っているが、1787年7月4日から10月1日の間に作曲されたとされていることも参考になろう[27]

本論文の結論としていくつかの音楽の遊びの結果を譜例に示した。

《音楽の遊び》K.516fは音楽としてどのように評価すべきなのだろうか。名前の長さは無制限であるから「組み合わせ」の計算が出来ず、可能な音楽は無限種類ある、と言っても良い程である。それならば、世界のモーツァルト・ファンが各々自分の名前を曲にして、モーツァルトと自分の合作の響きを評価してみること、それが、この曲の唯一の評価方法ではないだろうか。

最後に、本試論執筆に当たり、自筆譜のマイクロフィルムを提供して下さったパリ国立図書館、ヴィーン楽友協会図書館、本試論草稿に付し貴重なコメントを寄せて下さった新モーツァルト全集編集主幹のヴォルフガング・プラート博士に、心からの感謝を表明する次第である。

:音楽の遊び ハ長調 K.516f
小節選択 (k516f.lzh, 54kB,Excel95のファイルです)
ファイル変換 (mml2m47.lzh, 70kB, Windows95用プログラムです)

             

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作者:野口 秀夫 Hideo Noguchi
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URL: http://www.asahi-net.or.jp/~rb5h-ngc/j/k516f.htm
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(作成:1997/9/16、改訂:1997/12/28)