<第5章>

『君主論』の誕生


美徳は凶暴に対して武器をもって立たん。 戦い、すみやかにやまん。
イタリアの民の心に いにしえの武勇はいまだ滅びぬゆえに。(ペトラルカ)

サンタンドレアの山荘 サンタンドレア・イン・ペル・クッシーナは、フィレンツェの南方10キロメートルほどのところにある小さな村だ。
メディチ復帰の政変で政庁書記の職を失ったマキャベッリは、この村に所有していた山荘に引き籠もってしまう。1513年、彼は43歳になっていた。反メディチの烙印を押された彼に、政庁書記官への復職の可能性はほとんどなかった。
マキャベッリ自身は、復職への希望を捨てきれなかったが、この望みは生涯叶えられなかった。この境遇が、彼を執筆活動へと向かわせ、マキャベッリの著作家としての第二の人生が始まるのである。

マキャベッリの山荘での暮らしは、木を伐り、家畜に餌をやり、ワインを造り、居酒屋の常連たちと賭博に熱中するというものだった。そんな暮らしの中で、彼は古典研究に没頭して行く。夜になると、官服を身につけて服装を整え、古典を熟読し、論文を執筆する。こうして「君主論」が誕生した。
現在、マキャベッリの山荘は小さな博物館となっており、当時の家具類がそのままに展示されている。彼が通っていた居酒屋も健在で、立派なレストランになっている。もっとも、訪れる人は私のような物好き程度で、博物館の鍵はかけっぱなしである。居酒屋に頼んで、鍵を開けてもらいわないと見学できない。

マキャベッリの書斎 よく知られているように、「君主論」は、(小)ロレンツォ・デ・メディチに献じられた小論文である。マキャベッリは、メディチ家に登用される目的で「君主論」を書いたわけだ。この行動が後に、共和主義者の変節だとか、独裁者に取り入るために権謀術数を説いたとかの非難を浴びる原因となった。
しかし、彼の目的は、ただ個人的な就職活動にあったわけではない。
当時のイタリアは、小国分立状態で内輪もめを繰り返し、そのつまらない小競り合いのために、フランスやスペインといった大国と同盟を結び、外国の大軍を招き入れていた。その結果、ミラノ公国はフランスの支配下に、ナポリ王国はフランス、スペインの争奪戦の末にスペインの支配下に入る。かつては強国だったフィレンツェもベネチアも弱体化し、もう誰も外国による侵略を止められない状況になっていた。
この危機からイタリアを救うには、強力な君主によるイタリアの統一しかない、という思いがマキャベッリを動かしていた。彼は、ロレンツォにイタリア統一の夢を託したのである。

ロレンツォ・デ・メディチの墓 「君主論」を献じられたロレンツォは、メディチ家直系の長男(追放中に死んだピエロの長男)で、生まれながらフレンツェの支配者となることが約束されていた人物である。加えて、マルケ州ウルビーノの領地を、叔父の法王レオ10世(ジョバンニ・デ・メディチ)から与えられている。法王の後ろ盾をもってロマーニャ、マルケ地方の教皇領を掌握し、さらにフレンツェを中心としたトスカーナ地方を押さえれば、イタリア中部に統一国家を打ち立てることができるはずである。
これと同じような統一構想を実行に移し、途中で挫折したのが、法王アレクサンデル6世とその息子チェーザレ・ボルジアである。チェーザレは、法王の息子という立場をフルに活用することで、たちまちロマーニャ、マルケ地方の征服に成功し、トスカーナにも勢力が及ぶまでになっていた。フィレンツェも、彼の野望の前に風前の灯火の状態だったのである。こうして快進撃を続けたチェーザレだったが、アレクサンデルの突然の死によって、彼の征服事業は挫折してしまった。
しかし、ロレンツォは、フィレンツェを最初から手に入れている。叔父の法王レオ10世もまだ若い。あのチェーザレよりもずっと有利な立場にあったのがロレンツォだ。イタリア統一の半ばにして倒れたチェーザレよりも、一歩先に行けるはずなのである。

マキャベッリ博物館・チェーザレの肖像 マキャベッリは、「君主論」において、チェーザレによる政治と軍事行動をモデルにした。悪名をもって名高いボルジア家の人々を「賞賛」したとして、後世、この面でもマキャベッリは非難を浴びることになる。
だが、この小論文は、ロレンツォに「イタリア救済の指導者」たらんことを説き、チェーゼレをモデルに、救済の具体的方法を示したものなのである。ただイタリアの救済のみを説くのではなく、その処方箋を書いてみせたあたりが、実行不可能な理想論ばかりを説き、他人のやることを批判するだけの評論家とはひと味違うところなのである。
しかも、彼が示した処方箋は単純明快だった。あのチェーザレと同じやり方で、ロレンツォが行動を起こせばよいのだ。あまり頭の良くないメディチ家の連中にもわかりやすくできている。

「君主論」の終わりは、イタリアの現状を嘆くペトラルカの詩で締めくくられている。
しかし、マキャベッリのような危機意識に目覚めていた人は数少なかった。
マキャベッリがロレンツォの後盾として期待を寄せていたレオ10世は、ローマ教会の富を蕩尽しただけの法王だった。また、ロレンツォ自身、そんな夢を実現できるほど卓越した人物ではなく、何よりも体が弱かったらしい。薄命であったがために、天才ミケランジェロに墓をつくってもらうことができた。それだけの人だった。「君主論」は一行も読まずに死んだと言われている。


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