〔労働と法 私の論点〕

 職場の現実から目をそらさない虫瞰的(ちゅうかんてき)現実認識の意義

  派遣労働の現実 労働法のない世界

 「派遣労働者の悩み一一〇番」のホームページ(http://www.asahi-net.or.jp/‾RB1S-WKT/)を開設してもう四年近くになる。画像やCGIが少ない地味なページなのに、アクセスは一〇万件、メール相談者ものべ二千人、回答累計は三千通に近づいている。開設時の想像をはるかに超えた数字である。
 相談は派遣をめぐる多様な個別事例だが、これだけの数になると、現在の職場、労働組合、労働行政や労働法運用の一端が浮かび上がってくる。派遣労働者の現実は「差別」「無権利」「孤立」の三つの特徴に集約できる「労働法のない世界」と言ってよい。相談は実に多様であるが、回答はある意味で単純である。ほとんどは労基法の規定や契約内容の確認を指摘し、労災保険や社会保険の適用があることを教示すれば済む。しかし、その単純な回答を実現することは至難である。次の雇用継続・派遣先紹介の保障がない点で、「求職者・失業予定者」でもある派遣労働者は権利を行使すること自体が難しい。

 突然の契約更新拒否にあい「退職間際に有給休暇を使い切りたい」という相談に、それが「法的に可能である」と回答したところ、「権利行使をしたら『ブラック・リスト』に載せられて紹介が来なくなる」と同僚に忠告されたと言う。「そんなリストは違法で許されない」と回答しても相談者の不安を払拭するのは難しい。

 派遣労働者の雇用継続や法律で保障された権利を実現することは至難である。労働行政は現実を無視して無権利なまま派遣を拡大し、労働組合も全体としては組織化に熱心とはとても言えない。テレビ取材があっても個人を特定させないように労働者の顔の部分を撮影できない現実は異常である。

 毎日四、五通のメール相談への回答は、相談内容だけでなく時間的負担でも決して楽なものではない。しかし、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」である。労働法を論ずるための前提としての現実認識で強い確信を得られる点で、職場で呻吟する労働者の声を直接に受けとめる意義は測り知れない。

  受動的・鳥瞰的視点の限界

 かつて「善意だが怠惰な法律学者は恐ろしい」という指摘を、隣接労働諸科学の研究者や実務家から受けて愕然とし忸怩たる思いをした経験がある。

 ある労働科学者は、何年にもわたって重い測定器材を担いで林業作業従事者を一人一人遠く離れた山から山へと訪ね、説得しながら時間をとってもらいデータを収集してようやく、彼らの症状が業務起因性疾病(振動病)であることを論証した。労働省等の調査の不十分さや欺瞞を明らかにするために、一つずつ数字を積み重ねて反証に心血を注いできた。その科学者との会話で「労働法学者は官庁統計・調査を簡単に信用して論文に引用するのですね」と指摘を受けた。論文の導入部分で問題全体を鳥瞰するために官庁全国調査を便利に引用しがちな、多くの労働法研究者の「怠惰」を改めて痛感させられた。

 関連して、法学者は「ミネルバのふくろう」とも言われてきた。現実との関わりの多い労働法研究でも、判例や労委命令を整理して法理を考える受動的研究が多い。それを自省する意味でこの言葉が引用されてきた。この格言は「ふくろうは、夜(問題が起こってから)飛ぶ」という「事後的受動的対応」への自戒を含意していると思う。しかし、私は、いまの労働法学には「鳥(ふくろう)の視点」ではなく「虫の視点(虫瞰的現実認識)」が求められていることを強調したい。

 戦後、労働組合が労働者の地位や権利改善のために地味な日常活動を展開していた時代には、職場から生ずる権利問題が組合を通じて労働争議として顕在化し、判決や労委命令となって数多く集積されていた。弁護士が問題を受け止め、さらに意見を求められた研究者が外国法等の知識を元に理論問題を考察することが労働法学の課題となった。

 職場の権利闘争を反映した実に多様な法解釈問題が労働法学に多くの理論的課題を継続的に供給した。つまり、事後的ではあるが職場からの問題提起が活発で、現実認識という点でパイプは現在ほど詰まっていなかった。

 いま韓国が当時と類似の状況にある。この五月末、私は「韓国民主労総」とその外郭団体である「韓国非正規労働センター(Korea Contingent Workers Center)」から招かれて、派遣法をめぐるワークショップで報告をする機会があった。もう一つのナショナルセンター「韓国労総」や政府からもパネラーが参加して、三年目を迎えた派遣労働者の、法律に従った「正規職化」が全体のテーマとなっていた。雇用労働者の五三%を非正規雇用が占める韓国の状況は明日の日本とも重なるが、韓国の労組はストライキを含めて、いま「非正規職問題」に取り組み、職場から問題を告発している。

 しかし、現在の日本は職場の現実が実に見えにくい。組合活動が停滞し形骸化するなかで労働者の権利問題が人権問題と言えるほど深刻化していても、なかなか顕在化しない。ここ二〇年以上、日本では大きな争議はない。過労死・過労自殺等で労働者の生命が失われる苛酷な職場の現実、リストラ解雇、差別的雇用形態が急増していても「人権争議」は発生しない。問題告発の取り組みを企業別の正社員組合は提起しきれない(場合よっては抑圧側に回ることさえある)。労働組合の停滞のなか、「ミネルバのふくろう」であった労働法研究者の受動的現実認識の抜本的見直しが求められている。

  能動的・虫瞰的現実認識へ

 一五年前に労働者派遣法が導入され、昨年、規制緩和の方向で大改定があった。「労働者のニーズに応える新たな雇用・就労形態」として派遣労働を持ち上げてきた人々は、果たして現実を直視しているのだろうか?

 一五年も経つが派遣をめぐる裁判や労委命令は皆無に近い。その原因の一つは、労組が取り上げないことにある。派遣労働者の現実を告発するのは、派遣ネットワークや派遣一一〇番の地味な相談活動だけといっても過言ではない。たしかに、労働省やその関連団体が実施する調査・統計は鳥瞰的に全体像を把握したものであり、論文をきれいにまとめる点では便利この上ない。官庁統計・調査の限界を踏まえつつ批判的に活用することも可能であるし、必要でもあろう。しかし、派遣労働の現実は、労働行政や改定論者が描く鳥瞰的なバラ色のものでは決してない。地上を這い回る虫の視点がなければ、派遣労働の無権利な現実は捉えられない。

 日本の職場の現実で人権を問題にしなければならない状況が確実に広がっている。労働法研究者はこの状況に飛びこまなければ真実を見失ってしまう。労働法が「人材ビジネス法」に堕落することを傍観してはいられない。かつて、三池争議には労働法研究者の相当数が現場に飛び込み、労働者や職場の現実を肌で感じる努力をしたと言う。現在は、鳥のように雲の上から森の外観を見るだけでなく、落ち葉のなかを這い回って真実を探究する、鋭い虫瞰的視点からの現実認識が一層必要とされている。

 「労働法あっても職場に労働者の権利なし」という現実は、労働法研究者に深刻な反省を促している。労働の危機的状況のなかで「怠惰なミネルバのふくろう」という「古い上着よ、さようなら」である。あるときは低い視点から職場の現実を凝視し、あるときは高い視点から比較法を含めて日本の労働全体を見渡す「行動的ケンタウロス」になれたらと思う。韓国では三〇代の民主化運動世代を意味する「三八六」が二一世紀を動かそうとしている。外国法や学説史の研究も、日本の労働の現実に責任をもつ労働法研究の一環という位置づけを常に意識する必要があろう。職場の現実を直視する積極性と行動力を持ち続ける点で、若い世代の研究者にまだまだ負けてはいられない。(わきた・しげる)

労働法律旬報No.1485(2000年8月上旬号)p.4-p.5



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Last update: Oct. 22 2000