20世紀最大にして究極の小説家 ベケットを紹介します

2003/11/03  ベケットの本が来る
アマゾン書店に注文してあった、ベケットの本が届いていた。

Waiting for Godot: Tragicomedy ¥1,179
Three Novels by Samuel Beckett ¥1,299
並には勝る女たちの夢 ¥2,718
見ちがい言いちがい ¥2,000
いざ最悪の方へ ¥2,000

便利な世の中になったもの。とくにThree Novels by Samuel Beckettは「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」の3つの小説が英語で1冊になったものだ。素晴らしい。しかしいつ読めるかな?本当に疑問だ。死ぬまでには読もう。「もうひとつの僕の生きる道―BBS ¥648」で、読まなかった本というエピソードがある。そうなるかもしれない。所有する喜びだけで終わるのか。

ベケットの自伝 今回注文した本


小説家ベケットを紹介します。       新緑第17号 福井県失語症友の会会報  1996年

ベケットは小説家である。小説をかき、戯曲をかき、評論をかき、ラジオ・シナリオなどを書いた。「ゴドーを待ちながら」は最も有名な演劇で、不条理ノンセンスの演劇とよばれる。私は2年前に偶然東京でみることができた。その演劇は感動的なものであった。あふれでる意味のない台詞は、騒々しい沈黙に似ていた。饒舌なる沈黙のなかで私は時間をわすれた。しかし、ベケットは小説家である。

ベケットは1906年4月13日(金曜日)にアイルランドのダブリンで生まれた。ジェームス・ジョイスに師事した。1938年パリの路上で理由もなく浮浪者に刺された。1946年パリで多くの小説・戯曲を書いた。1969年ノーベル文学賞を受賞し日本でも紹介された。19歳の大学生の私はのめりこんだ。晩年は引退し、ノーベル賞の賞金や印税は寄付し、世間から離れた。私の記憶が正しければ1989年12月25日(クリスマス)に静かに永眠した。ベケットは英語かフランス語で作品を書き、自ら自分の作品を翻訳した。

「マーフィ」は最も普通の小説である。登場人物は多く、舞台もひろがっている。精神病院でのエンドン氏とのチェスの43手の指し手を再現すると、駒は動かされ最終で全く最初の配置に戻る。完璧な勝負である。またつまらぬことから死んでしまう主人公マーフィの遺灰は、劇場のトイレにながしてくれという遺志とは関係なく、酒場の喧噪のなかにまき散らされる。この終末に表される曖昧な無意味さこそがこの小説の多様性を象徴している。

「モロイ」は1人称になる。その中の、モロイが「おしゃぶり用の石」が16個あった場合、4つのポケットに入れて、口にいれる順列組み合わせについて9頁費やす。最終結論は「それらはどうでもよかった」であり、1個以外すべてを投げ捨てる。そして「夜中の12時だ。雨が窓ガラスをたたいている。夜中の12時ではなかった。雨が降っていなかった。」この小説の結末こそが、私のベケット体験の初体験なのであった。これを立ち読みでみて、感動して購入した。その後白水社の全集をほとんど買い続け、読みふける「ベケット地獄」がはじまった。雨が降っているのかはっきりして欲しい。しかし、現実はあるいは小説は、雨が降っていようがどうでもいいことである。別の解釈をすると、雨が降っている、と書いてから、長い時間がすぎ、ふたたびペンを取ると、雨は降っていなかった、だけだろうか。

「マロウンは死ぬ」は、「とうとうもうじきわたしは完全に死ぬだろう、」ではじまり、「そこだそこだ  もうなにも」でおわる。主人公はもはや寝たっきりである。記憶もさだかでなく、どうしてこうなったかわからず部屋にいる。皿があり、世話してくれる女がいるらしい。ひとりで退屈し、つぶやくだけである。そのつぶやきは現実と作り話が混然としわからなくなる。最後には世話してくれる女がこなくなり、主人公は死ぬらしい。単純な退屈な筋書きであり、実際おこりそうもないと思われた。しかし現在、私は病院で高齢の患者の終末を診るようになった。この小説の主人公は目の前の沈黙する患者自身であり、患者の沈黙は実はマロウンの饒舌と感じる。

「名づけえぬもの」は、小説の解体である。もはや主人公は名前もなく、人間かどうかもわからない。言葉だけなのかもしれない。終わり近くの名づけえぬ「わたし」の語る言葉を引用する。 『 わたしは言葉のなかにいて、言葉で、他人の言葉で、できている、どんな他人かは知らぬ、場所、空気、壁、天井、すべての言葉、全世界がここにわたしとともにある・・・・・・わたしはこうしたすべての言葉、こうしたすべての見知らぬもの、埃のように舞っている言葉、舞い降りようにも地面はなく、消えようにも空はなく・・・・』まるで小説が長い長い詩になったようだ。究極の小説でこの後に小説はない。物語だけが残ると私は確信した。

しかし10年の沈黙がたち、1961年に最後の究極をこえた小説「事の次第」を発表した。そこには言葉もなく、「声」だけが延々と続く。無になった小説を引用する。 『 わたしは語るわたしの人生自然の順序で次々とわたしの頭に浮かぶまま唇が動くそれをわたしは感じとる泥のなかに出ていくわたしの人生その残滓言いそこないいつかつかまえそこないあえぎがとまるそのときは泥に向かってつぶやきそこないそれらすべてを現在形でいずれも古いことばかり自然の順序に従って旅二人組放棄それらすべてを現在形でかすかな声で切れ切れに 』 まるで小説は音になったようだ。私はさすがにこれを最後まで読むことはできなかった。

ベケットの作品を紹介するにとどまったこの文章はあえぎあえぎ終わる。うむ、神はないと信じるとき、神は生まれる。神があると信じるとき、神は死ぬ。同様に言葉がないと思うときに、言葉は湧き出す。言葉があると思うときに、言葉は腐っている。沈黙にまさる饒舌はない。私はそう信じる。    
 (平成8年3月記)