派遣者に登録




 1998年1月16日。3学期の学級懇談会の日だった。HR教室で学級懇談をしているところに、わざわざ学校長が来てくれた。教室の前の扉から顔を出し、「山本先生、ちょっと」出ていくと、「私はこの後すぐに出なければならない。このことは先生も一番気になっていることだろうし、直接本人に伝える内容だから」と、前置きをして、11年派遣登録者となったことを告げられた。1年3ヶ月後には、日本を離れることが決定した。ホンネで言えば、準備期間はないけれど、10年派遣がよかったと思っていた。「10年度の1年間、職場で自分の身をどこに置けばいいのか」と考えると、正直、気が重かった。

 選考を受ける段階で妻に話をしたが、妻の気持ちは、「乗り気ではないけれど、なりゆき(合否の結果)にまかせよう」ということだった。妻の方が3歳年上で、勤続年数も18年が終わろうとしていた。夫という立場を離れて、一教師として彼女を見たら、「力量十分の40代教師」だ。派手な個性はないものの、最後はシットリとクラスはまとまっている。学校の状況が厳しい(荒れている)時でもそうだった。「さすがにパワーダウンしてきた。自分でもどこかで、辞め時を探していたかも知れない。教師という職業に未練はあるけれど、3年も現場を離れたら、体も頭も学校の仕事のペースについていけないな。帰ってきて、教師の仕事をするだけの気力と体力が残っていたら復帰する。」との結論になった。大阪の場合は、配偶者は特約退職となり、一旦退職金が支払われる。3年後には面接だけで復帰できるが、勤続年数は一からスタートとなる。このあたりに詳しい人は分かると思うけど、退職金の計算には天と地ほどの差が出る。金に替えられない経験をするとは言え、この制度、何とかならないものか。


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