97年派遣選考(1)




 97年4月。派遣選考のことは新年度準備をしていた最初の一週間はボンヤリと考えていただけだった。入学式・始業式を終えた数日後、「皆が年度始めの殺人的多忙さ」の中で、私にとっては決定的なことがあった。仕事の段取りに関することでの同僚との衝突だったけど、詳しいことはここでは書けない……
 学校長に派遣選考受験の意志を伝えに行く。何度も「本気なのか?」と確かめられる。学校長としては、ここ1〜2年のうちに私を生徒指導主事に、と考えていたようだ。

 選考に際して提出する願書のようなものがある。「在外教育施設派遣教員選考調査表」なるものだ。この中で特に「志望理由」欄の記入については、ワシントン補習校派遣経験のある友人からアドバイスをもらっていた。「自分が何をしたいを強調するのだけはダメ。子どものためにこんなことができる、を強く打ち出すこと」が大切ということだった。

 5月20日、大阪の論文選考。準備としては、指導要領の総則編と学校教育計画(各学校で作成する要覧)、中教審の中間答申、そして前海外子女教育課長の磯田氏の講演記録を精読した。お題の方はこちらを参照。2題があったが、ともに1000字程度で、指導要領と中間答申に結びつくように記述した。

 5月22日、大阪の面接選考。今回の選考に際して妻が夏用のスーツを新調してくれた。会場に向かう駅での一コマ。ホームで立っている私の背後からハイキング帰りらしいオバチャンが近づいてきて、「ご主人、失礼」と言いながら、スーツのセンターベンツについていたしつけ糸を切ってくれた。先日の論文選考の際には気づかなかったが、買ったときのままであった。そのまま面接を受ければ、恥をかくところだった。オバチャン、ありがとう。
 面接そのものは、特に突飛な質問もなく終わった。ただ、「海外子女教育に関する研修会が、帰国された先生を中心に運営されていますが、参加したことはありますか?」と「今年から大阪では配偶者は特約退職になりますが、ご存じですか?」には、焦った。その手の研修会には全く参加していなかったことと、妻の処遇は経験年数がとぎれることのない「休職」だと思っていたので、動揺は隠せなかった。選考不合格だとしたら、この動揺が原因だろうと思っていた。

 6月5日、市教委を通じて府の選考合格の通知がやってきた。市教委からは「17日には調査表と健康診断結果を提出することのなるので、それまでに健康診断を受ける段取りをつけるように」と指示を受けた。
 


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