千葉大学の授業に出席するために、下宿先から稲毛駅に向かう途中で急に雨が降り出した。
空模様が怪しかったので用意しておいた傘をさしたところ、
前方を傘もささずにとぼとぼと歩いている労務者風の男に気付いた。
雨に濡れながらも男はゆっくりとした足取りだったので、やがて追いついてしまった。
追い越しざまに見えた横顔からは、40~50歳くらいだろうか、なにかとても疲れた様子が感じられた。
そのまま通り過ぎてしまうのも捨て置けないような気がして、思わず傘をさしかけた。
「稲毛駅方面に行くのなら同じ方向なので、よかったら入りませんか」
突然声をかけられて男は少し驚いたようだったが、「それはすまないね」と傘に入ってきた。
「いやあ、こんなに親切にしてもらったのは、こちらに来て初めてだよ」と男は口を開いた。
「この辺の人ではないのですか?」
男は青森から出稼ぎに来ていて、冬の間だけ千葉で働いていると言った。
「向こうでは冬は雪に埋もれてしまって、畑仕事もできない。
こっちみたいに冬なのに雨が降るなんて信じられん。この時期の空から降ってくるのはいつも雪ばかりで・・・」
「まあ、千葉は暖かいですから。実は僕も群馬からこちらの大学に来ています。海風が冷たい日もあるけれど、
上州からっ風に比べればまだましです。群馬では雪はめったに降らないけど、風はものすごいので」
「そうか、あんたもこの辺の生まれではないのか」
お互いに地方出身ということで親近感が湧いたのだろうか、男は饒舌になり地元の話を始めた。
「青森の家にはかわいがっている犬がいる。いつもは俺が面倒をみているが、
今は家族が代わって世話をしている。俺によくなついていてね、
久しぶりに会うと、お帰りなさい、待ってましたって、尻尾をちぎれんばかりに振って飛びついてくる」
「僕の実家にもビーグル犬がいて、大学が休みの時に帰省するとすごく歓迎してくれます。犬っていいですよね」
「そうだな、早く仕事を終えて帰りたいものだ・・・」
駅が近づいてきたところで、「ところで学生さんは何を勉強しているんだい?」と尋ねられた。
「医学部に入っています。まだ1年生で一般教養を学んでいるところなので、本格的な医学の勉強はしていませんが」
「そうか、あんたは医者になるのか。こんなに親切ならいい医者になるだろう。頑張って勉強してくれ」
男は右手を出して握手を求めてきた。
握ったその手はごつごつしていたけれど温かかった。
「俺はもう少し先の場所に行くのでここまで結構だ。雨も少し小やみになってきたし」
「まだ授業までには時間があるから、そこまで送りますよ」
「いや、すぐ近くだから大丈夫だ。今日はいい思いをしたよ」
男は手を振って去っていった。
後姿を見送りながら、ほんの小さな親切からの淡い触れ合いだったけれど、
いい思いをしたのは僕も同じです、と心の中でそっとつぶやいた。
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