スパ・デビュー


 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり────

 紀貫之の土佐日記と逆になるが、女性に人気の(逆に男性にはあまり縁のない)
日記ならぬスパというものを、妻とシンガポールに行って初体験したので、
その感想を書いてみようと思う。

 スパという言葉は温泉というのが本来の意味なのだろうが、
ここではプール、ジャグジー、サウナ、マッサージ、エステなどを統合した、
心と体の癒しを目的とするリラクゼーション施設を指している。

 出発前に妻から、今回泊まる予定のホテルにはスパ施設があるので、
一度試してみたいという要望があった。
 「シンガポールは最近、スパが人気だそうよ。
日本よりずっと安いらしいし、いっしょにどう?」

 そういえばどこかのテレビ番組で女優がリゾートへ行き、
マッサージを気持ちよさそうに受けているのを見たことがあった。
でも私は温泉場の指圧さえ経験したことはないし、くすぐったがりやだし、
なんとなく恥ずかしそうだし、そもそも女性御用達のものだろうしで、
自分自身でやりたいと思ったことはなかった。

 「いや、僕は遠慮しておくよ。君一人で受けてみたら」
 「でも、あなたはのんびり休日を過ごしたいと言いながら、
旅行に行くとあれを見よう、ここへ行こうと動き回るばかりで、
今まで一度もゆっくりできたことがないじゃない。いい機会だと思うけど」

 そう言われるとそのとおりで、「そうか、どうせ一生に一度のことだろうし、
話の種に経験してもいいか。そうしないと、いつも通り疲れ果てて帰国する
弾丸ツアーになってしまうかもしれないし…」、ということで、
試しにインターネットで調べてみた。

 私たちの泊まる予定のセントーサ・リゾート&スパというホテルは、
離れにスパ・ボタニカというスパ棟を備えていた。
トリートメント・メニューは10種類以上────熱帯の花を使うもの、
チベットや中国の秘薬を用いるもの、ジャワの王族が結婚式前に行うものetc.
────あって、どれにしてよいのやら迷いに迷った。

 でも、自分たちの年齢を考えると、まあ、これでしょう! 
” Rooibos face and body anti-ageing delight”という
抗加齢効果を謳ったメニュー。
これはrooibosという南アフリカ原産のハーブを使ったトリートメントで、
免疫力強化・抗酸化作用があるとのこと。
しかもカップルで受けることができる。

 「あなたは医師として、関節を動かす指圧みたいなAKAを
勉強しているのだから、今回スパで逆の立場になってマッサージを受けるのは、
今後の治療の参考になるかもしれないわ。
それに抗加齢学会にも入って以前から若さについて研究していることだし、
rooibosにも興味があるのではないの?」と妻が促す。

 うーむ、そう言われれば、またしてもそのとおりだ。
もうこれはやるしかないでしょう。
さっそくインターネットで予約だ。
さあ、若さは果たして蘇ってくるのだろうか? 
早くも妻の瞳の中には、昔の少女漫画によく出てきたお星様が、
キラキラと輝きだした。
 
 さて実際に現地を訪れてみると、スパ施設はホテルの離れにあり、
南国の美しい緑や花に囲まれた庭を備えていて
プールやジャグジーが点在するというすばらしい所。
敷地内はとにかく静かで、ときどき小鳥のさえずりが聞こえるのみ。
熱帯の生暖かい風には、花々の甘い香がほんのりと漂っていて、
否が応でも期待に胸が膨らむ。

 落ち着いたエントランスをぬけ、受付を済ますと、
スタッフに男女別々のロッカールームに通され、
服を脱いでバスローブに着替えるようにという指示があった。
着替えを終えて待合室にしばらく座っていると、
若い女性テラピストが迎えに来てくれた。
後をついていくと、別の女性に連れられてきた妻と廊下で合流した。

 ここスパ・ボタニカではトリートメントを行うところは屋外で
周りを塀に囲まれた東屋の中に、ベッドが二つ用意されており、
着替え室、トイレ、シャワーが配置されている。
スパ施設内には同じような造りの独立した建物がいくつかあり、
壁でさえぎられて見えないが、それぞれの中で他のゲストが
トリートメントを受けているようだった。

 まずは足浴からスタート。
5分くらい浸かった後、テラピストが足の指の1本1本まで
丁寧に洗い始めたのでびっくり。
なんという非日常性!
くすぐったいうえ、どうも居心地が悪い。
考えてみれば他人に足を洗ってもらうことなど、幼児の時以来ではないか。
でも妻は当然という感じで堂々と受けている。さすがだ。
 
 その後、ベッドに横になり、全身に顆粒の入った液体を塗って、
手で肌をこすり上げるスクラブというのをしてもらった。
皮膚の古い角質を剥離するために行うものだが、これは結構刺激が強く、
肌の弱い人は負けてしまうのではないかと思われるくらい
ごしごしとしごかれた。
ああ、でも美しくなるためには我慢しなくちゃ。

 シャワーを浴びて磨き採られた垢を洗い流してから、
いよいよオイルによる全身のディープマッサージだ。
うつぶせになっているために具体的にどのようにしているのか分からなかったが、
指先・関節・手掌・手甲などのあらゆる部分を使い、圧して、揉んで、ほぐし、
つまみ上げ、こねて、振って、撫でて、叩いてと、
すぐれた外科医の指の動きのように澱みなく
テクニックの限りが尽くされているようだった。

 それは”痛い〜くすぐったい〜気持ちよい”がランダムに繰り返され、
『く、苦しい。で、でも止めないで』、といったアンビバレントな
心の中の悶えとは無関係に、容赦なく進行していった。
次にどんな刺激が待ち受けているのか。一体いつまで続くのか。
快感とはちょっと違う、予断を許さないエキサイティングな展開であった。

 件のTV番組のリポーターならば、「マッサージはあまりに快感で、
薄れゆく意識の中で精神の高みへと導いてくれる白日夢を見ているようでした…」
などとコメントするところなのだろうが、私の場合は慣れていないせいもあり、
とてもそんな境地には至らなかった。
その後、皮膚に水分を与えるジェルを全身に塗られて、ボディの部は終了。
 
 次はフェイシャルに移った。
まず顔のクレンジングで、毛穴の中まできれいにしてから、
顔の筋肉のマッサージがあり、最後にジェルをぺたぺた塗られて、
フェイスマスクをされた。

 頭皮のツボ押しなどもあったが、これはいつも床屋で経験して
勝手が分かっているせいもあるのか、比較的リラックスできた。
そしてそのまま全身を布で20分ほどラップされ(ミイラ状態である)、
ようやく2時間半に及ぶトリートメントは完了した。

 ちなみに使われた材料にはすべて、今回のテーマである
抗加齢作用を有するrooibosが含まれているとのことであった。
妻に感想を訊くと、マッサージはとても気持ちが良く、
思わず寝てしまいそうになったが、
このエクスタシーを堪能しないのはもったいないので、
眠るものかと根性で頑張っていたとのこと。
またしても、さすが。

 すでにトリートメントは終了しているというのに、肌は微熱を帯びたままだし、
筋肉はまだ揉まれているような余韻を残していた。
マラッカ海峡を渡ってくる湿気を含んだ風が、ときおり木漏れ日を踊らせ、
ほてった身体に柔らかくまとわりつく…

 「体に塗られているオイルは、抗加齢効果を充分引き出させるために、
最低2時間くらい洗い落とさないように」
 美しく手入れされた中庭の休憩所で、
rooibos入りハーブティーを我々に振る舞った後、
そう言い残してテラピストたちは去っていった。
 
 「いやー、きれいになったね。30歳代に見えるよ。よかった、よかった」
と妻に言うと、
 「あら、あなただって、お肌がつるつる、ぴかぴかよ。10歳は若返ったわ」
……こうしてお約束のエール交換を終え(大事な儀式!)、
衝撃のスパ・デビューは大団円を迎えたのであった。

 その後3日間くらいは肌がしっとりとして張りもあったが、
日本に帰ってくる頃にはすっかり元の状態に戻ってしまった。
まあ、こんなものでしょう。
でも一時でも心身ともにリフレッシュされた余韻は今も残っている。
またトライしてもいいかも。


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