余暇の過ごし方の私的変遷(あるいは価値基準の転換)
 


 「今度の休みにはどっかの温泉へ行って、朝から晩までな―んもしないで、のーんびり
1週間を過ごす。もうそれが最高だよ」と医局で同僚が言うのを、私は不思議な気持ちで
聞いていた。まだ勤務医だった頃だ。

 何もしないで過ごす? 

 当時の私にとり、休みをとってどこかへ行くということは、日常生活では味わえない新
しいことを経験するために能動的に働きかけること------その土地の観光名所を訪れ、
名物料理があれば食し、海ならば泳ぎ、高原であればハイキングし、夜は酒とカラオケ
etc.------を意味していたからであり、1ヶ所にじっとしているなんて受動的なことは考
えも及ばなかったからだ。

 その後海外旅行に行った時も、欧米人がプールサイドのデッキチェアに寝そべり、日光
浴や読書をしているのを見たことがあった。でも私には、ずいぶんもったいない時間の過
ごし方をしているとしか思えず、1日中あちこちと動き回り、観光にいそしんだ。そして
くたくたに疲れてベッドにもぐり込み、今日はこんなにいろいろなことができた、明日は
何をしようかと、充実感にひたりながら眠りについた。これがストレス発散に通じるもの
とずっと信じてきた。

 転機が訪れたのは、今年の正月に草津へ泊りがけで出かけたときだ。当初はスキーを計
画していたのに、朝起きてみるとなんと外は猛吹雪。風はうなりをあげて窓ガラスをゆす
り、あたり一面ホワイトアウトされている。垣間見える風景は折れんばかりにしなる木々
であり、フォッグライトを点けフルワイパーで徐行運転している車であり、あるいは風上
に体を45度傾けて必死で歩く人の姿であった。もちろんリフトは全面的に休止し、とて
もスキーなどできる状態ではなく、ホテルの部屋で過ごすしかなかった。テレビは芸能人
による退屈極まりない正月番組ばかりだし、ベッドに横になってはみたものの、昨夜よく
寝たためか眠くなるはずもなかった。子供達はゲームボーイを楽しんでいるし、妻は再び
のんびり寝ているので(妻はいつでもどこでも眠れるのだ)、私は独りで何もすることがな
かった。

 それは強制的に置かれた状況ではあったが、よく考えてみると、いつも何かに追い立て
られているような日常生活とは、対極であることにも気づいた。そこでふと本を持ってき
たことを思い出した。いつも旅行のときには現地で読む機会があればと文庫本を幾冊か鞄
につめているのだが、まともに読んだことは一度もなかった。読書は自宅にいてもできる
わけだし、わざわざ旅先でいろいろお楽しみがあるのを差し置いて、そんなことに時間を
つぶすことはないと考えていたからだった。でも他に選択肢はないので、とりあえず一冊
を手にとって読み始めてみた・・・・・

 それからどのくらい経っただろうか。窓の外はいつの間にか雪が降り止んで、遠くの山
の稜線が鮮やかに浮かび上がってきていた。これほど集中して本を読んだのは久しぶりだ
った。気がつくと、ゆったりとした雰囲気に意外にもハマっている自分がいた。旅先の底
流で奏でられているリズムと、自分自身のそれとがシンクロナイズしているのだ。不思議
なことに、いつもより時はゆっくりと過ぎてゆき、気持ちはとても落ち着いていて、血中
リゾート濃度は100%になっていた。このゆとり感は、日常生活と切り離された空間にいる
からこそ可能であり、在宅読書では味わえないものだった。その瞬間、同僚医師の言った
言葉や、プールサイドで読書する意味が、あぶり出しの絵を見るように唐突に理解できた。

 以来私は何もしない休日を過ごすことを目標にしている。もちろん今度の休みもそのつ
もりだ。「そんなこと言って、どうせその時になったら、さあ何々しよう、何所其処へ行こ
う、とするに決まっている」と今までのパターンを知る家族は言う。でも絶対に何もしな
いもんね(たぶん)。

  エッセイ集に