雛

 初めてその存在に気づいたのは、うんざりするほど暑かった夏がようやく終わり、透き通った冷気が漂う朝でした。クリニックの中庭にある松の木の枝に枯草を集めた巣ができていて、その中に二匹の雛がいるのを見つけたのでした。近くの枝には親鳥と思われる土鳩の姿がありました。巣は高い梢に目立たないように作られていましたが、二階の自宅の窓からは目の高さであり、観察には絶好の位置でした。ひそやかに息づいている雛を見ていると、それはまるで松の木そのものから生まれてきたかのような錯覚を私に起こさせるほど、梢と一体化していました。それからは暇があれば、つい窓から覗いて雛が無事なのを確認し、そのたびにほっとするようになりました。親鳥は毎日せっせと餌を運んで子育てに精を出し、雛も順調に大きくなっていきました。

 ところがどんよりと曇ったある朝、雛を見ようとカーテンを開けましたが、そこにはいつもの雛の姿はなく、ただ主を失った巣だけが空虚な姿をさらしていました。庭に出て辺りを捜してみたところ、地面の上に一匹の雛がいるのに気づきました。何らかの理由で巣から落ち、自分の運命を呪うこともできず、ただ呆然としているようでした。もう一匹の雛は見つからないまま、開院時間が迫り、親鳥の鳴き声がどこかから聞こえていたため、とりあえずそのまま様子をみることにしました。

 出勤してきた従業員に雛の話をしたところ、受付のK嬢は中庭に飛び出して行きました。彼女はとても動物好きであり、以前も車にひかれた野良猫を捨て置くことができずに、通勤途中にもかかわらず動物病院へ連れていったため、遅刻した経歴がありました。K嬢は手の届く枝の上に薬の空き箱で臨時の巣を作り、雛を乗せて親鳥の再訪を待つことにしました。翌日親鳥が雛に餌を与えている場面が目撃され、従業員一同ほっと胸をなで下ろし、K嬢の功績を讃えました。クリニックを訪れる患者さんたちも、噂を聞きつけて鳩の育て方をアドバイスしてくれたり、我がことのように気にかけてくれたりしました。来院する度に受付嬢と鳩の話題で盛り上がっているのが診察室の方まで聞こえました。

 こうして幾日も過ぎてゆき、やがて雛はうつ状態から脱却し、そばに近寄ると翼を広げて威嚇するほどになりました。体も大きくなってきて、今にも飛び立ちそうな勢いです。もう大丈夫、誰もが雛の行く末に明るい希望を抱いていました・・・。

 しかし現実とはあっけないものです。雨に煙る朝、巣の中で冷たくなっている雛の姿が発見され、松の木の根本に埋葬されました。松の尖った枝葉を伝わった雨滴がまるで涙のように無数の線を描きながら、亡骸を納めた地面を黒く濡らしていきました。私には、それはあたかも松の木から生まれた雛が、故郷の松の木に帰っていったようにも思われてしかたありませんでした。それ以後は親鳥の姿を見かけることもなくなりました。こうしてクリニックに起こった本当に小さな出来事は静かにその幕を引いたのでした。


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