アウトロー犬


 まったく災厄はどこに転がっているかわからないものだ。

 その日も妻は、我が家の愛犬をつれて、夕方の散歩に出かけていた。初秋の澄み
きった風が頬を気持ちよく撫で、黄昏が街のシルエットを鮮やかに浮かび上がらせ
ていた。彼女にとっても、また家の犬にとっても、いつものように快適なひと時が
約束されていたはずだったのだ。一匹のマッチョでタフなアウトロー犬に出会う前
までは。

 散歩中に妻は妙に目つきの悪い犬が前方にいるのに気づいた。しかしその犬は首
輪をしているようだし、そばで車から荷物をおろしている人がいたので、おそらく
その人の飼い犬であろうと考え、安心して近づいてしまった(結果的に両者は何の
関係もなかったのだが)。初めは友好的に尻尾を振っていた家の犬は、相手の犬の
異様な殺気に気づいたのか、なんだ、やるのかよー、といった険悪な雰囲気になっ
てきた。妻はあわてて方向転換をして、横道にそれてやり過ごそうとした。しかし
その犬はしつこく後を追いかけてきて、道路上でにらみ合いが再び始まってしまっ
た。

 犬同士の争いを避けるために、相手の犬を軽く蹴って追い払おうとしたが、残念
ながらそのメッセージを伝えるには、足の長さがほんの少し足りなかった。その瞬
間、アウトロー犬は家の犬に飛びかかってきて、二匹の犬はくんずほぐれず状態と
なり、綱を持っていたためにその勢いで引っ張られ、思い切りしりもちをついてし
まった。激しい痛みに意識がブラックアウトしそうになりながらも、喧嘩を止めよ
うと気力を振り絞って立ち上がった。そしてもう一度犬の腹をめがけて蹴りを入れ、
今度はみごとに命中したのだが、相手の犬はまったくひるまなかった。それは、も
しも犬が死んでしまったらかわいそうなので、思いきり蹴れなかったから、と妻は
言う。

 僕は幸いなことに夫婦喧嘩のときも、まだ妻の蹴りを実際に受けたことがないの
で、それが一撃で犬を葬ってしまう威力を持っているとは知らなかったが(本当に
幸いだった)、とにかく激しい痛みの中で、彼女がそれほどのいたわりの気持ちを
犬に示したということに、少なからず感動を覚えた。勝敗のほうは、愛犬が相手の
足に噛みついたのが決定打となり、アウトロー犬は退散していった。
なんてことはない、日常はきわめて平和主義者の我が家の犬は−−−餌の残りを
食べに来た鳥や、目の前を横切る猫にさえも尻尾を振るのが常である−−−意外と
喧嘩が強かったのだ。

 さて翌日になっても妻のお尻の痛みはいっこうに退かないので、レントゲンを撮っ
たところ、尾骨骨折が判明した。あと1ヶ月は痛みが続くことを告げた後、僕はな
んとか慰めようと言葉をかけた。

「とんだ災難だったね。けれどもこう考えてあげたら、少しは腹の虫も治まると
思うんだけど、どう? その犬は小さい頃から天涯孤独で、近くの悪ガキからは石
を投げられていじめられ、他の犬からは仲間はずれにされて噛まれてばかり。唯一
ご飯をめぐんでかわいがってくれていた近所のお婆さんも、昨日死んでしまった。
孤独と絶望を引きずり、自分の運命を呪いつつ街中をさすらっていた。そんなダイ
ハードな時に、飼い主と幸せそうに散歩しているのをみて、つい因縁をつけてし
まった・・・」。僕は割合こういった想像を得意としているのである。

 「犬を恨んだりする気持ちは、私にはもうとうないわ。だってそれは偶発的なこ
とでしかたないし、うっかり近寄ってしまったのは私の誤りだし、だいいち犬だっ
て私を襲ったわけではないのだから」と、妻は水が流れるようにさらりと言った。

 僕は彼女のやさしさに満ちた言葉に再び感動していた。たいしたものだ。でも、
できたらそのマリア様的な寛容と慈愛を、たまには汝の夫に対しても示してほしい
ものだ。いや、ほんと、ほんの何分の一でもいいですので。

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