ある夜の出来事

 時計の針は午後10時を廻っていました。木枯らしは海鳴りのように窓を打ち振るわせて吹きすさび、足下の枯葉を瞬く間に路地裏の闇の中へと消し去りました。凍てついた大気の中、天空には満月が蒼白い無機的な光を放ち、その輪郭を鮮やかに浮かび上がらせています。

 時間外の急患の診察を終了し、診療所のドアを閉めようかと思っていた時、妙齢の女性が泣きながら玄関に飛び込んできました。一瞬、最近夜の町で何か悪いことをしたかしら?と、頭の中をいろいろな思いが駆けめぐったのですが、女性の口からは意外な言葉が発せられました。

 「道路で犬が車にひかれて動けないでいます。助けてください!」・・・どうやら交通事故にあった犬を、たまたま通りがかった女性が見つけ、どうしてよいかわからず、医者ならば何とかなるだろうと近くの当院に助けを求めてきたのでした。

 少しほっとしながらも現場に駆けつけてみると、なるほど、そこには1匹の犬が車道の端に座り込んでいました。どうやら左後脚を骨折して動けないようで、少し血も流れています。「ぼくは獣医ではないからよくわからないけど、ちょっと診てみるね。」と診察しようとしましたが、犬はパニック状態らしく牙をむき、咬まれそうでとても触ることができません。

 妙齢女性はウルウルしながら「私はアパートで1人暮らしをしているので、犬は飼えないんです。」と何げなく当院で犬を預かってほしいという雰囲気です。ちょ、ちょっと待ってくれ、それはいくら何でも困るんだけど、と途方に暮れてしばらく佇んでいたところ、通行人の中で犬好きと思われる人が、一人また一人と犬の周りに集まってわいわいし始めました。ある人はどこからか洗面器を持ってきて水を入れて飲ませようとしたり、また別の人は近くにあった段ボールの切れ端を集めて風よけを作ってあげたりしました。

 しかし犬はあいかわらず心を許さず、うなり声をあげ、誰一人手を出せませんでした。手足はかじかんでくるし、耳たぶは引きちぎれそうで、おまけに明日までに仕上げなければいけない書類もまだ残っているしで、ここらで引きあげたいのですが、乗りかかった船なので一人逃げるわけにもいかないという膠着状態のまま、時間だけが空しく過ぎていきました。

 ふと、そうだ、警察なら何とかしてくれるかもしれないと思い立ち、早速電話をしてみました。しかし、警察は犬には冷淡で、こちらの事情を話してみたのですが、「そうですか、それは困りましたねえー。」というばかりでまったく来てくれようとしません。

 電話帳で近くの獣医さんに連絡を試みましたが、なにぶん遅い時間帯のためか電話が通じません。保健所はとっくに閉まっているだろうし、まるで搬送が必要な患者さんがいるのに受け入れ病院が見つからない当直医のような八方塞がりの状況が続いていた時、犬を車でひいたと言う男女が現れました。なんでも女性が男性を駅へ迎えに行く途中で犬をはねたけれど、時間が迫っていたためやむを得ずそのままにして立ち去ったが、心配になって来てみたとのこと。

 加害者が現れたので少しは話が進むかと一瞬思いましたが、犬はあいかわらず怒っており、やはり誰も指一本触れることはできず、状況は変わりませんでした。夜も更けてきたというのに、もうすでに犬の周りには10人近くの人垣ができて、何とか助ける手段はないものかと、あーでもない、こーでもないと言い合っています。

 するとそこへ通りがかった人が、幸いなことに知り合いの獣医がいると言い出し、電話をしてくれました。当の獣医さんはあいにく出かけていましたが、その奥さんが携帯電話へ連絡を入れてくれたので、20分ほどで着くとのことでした。みんなで今か今かと待っていたところ、やがて1台の車が疾風のように現場に到着し、中から獣医さんが颯爽と現れました。

 どうやって犬を捕まえるのだろうかと興味津々で見守っていたところ、なんと大きな風呂敷を取り出し、闘牛士が赤布を扱うような鮮やかな手つきで、ひらりと犬の頭からかけて全身を包み込み、あっと言う間に捕まえてしまったのです。さっきまで唸っていた犬も今はキャンキャンと情けない声をあげて降参しています。現場にいた人々からは、その鮮やかな手腕に思わず感嘆のため息が漏れました。私も同じ医者とはいえ為す術もなかったわけで、餅屋は餅屋だとつくづく思いました。

 犬の治療費は加害者が払うこととなり、犬は獣医さんに連れられていきました。かの妙齢女性も大勢のギャラリーも、お互いの健闘を讃え合いながら、犬の命を救えたことに満足した様子で家路へと帰っていきました。私はというと犬好きの人たちの善意に驚きと感動を禁じ得ませんでした。こうして冬の夜の珍騒動は終わりました。

 しかしこれには後日談があり、そんな騒ぎも忘れた頃にある飲み屋に行ったところ、店のご主人が、「いやー、最近、常連客の獣医さんが車にひかれた犬を預かったそうですけど、誰も引き取り手がいないために、医院の中で飼うことになって困っているとこぼしてましたよ。」と言うのを小耳にしました。その瞬間、医院に飛び込んできた女性の涙や、犬好きの通りがかりの人たちの顔や、牙をむいてはいてもどこか寂しげだった犬の眼や、暗い通りを吹き抜けていた凍えるような北風などが次々とフラッシュバックしてきました。そして、現実という複雑な思いを、苦いビールといっしょに一気に飲み干したのでした。


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