私とボウリング 

 誰でもスポーツを始めるきっかけは、なんとなく面白そうだからというのが、多いのでは
ないでしょうか。私もそのような理由で初めてのボウリングを、ブーム全盛期の中学生時代に
体験しました。ボールを転がしピンを倒すというアクション的要素に、ストライクやスペアに
よって得点が次々と加算されていくゲーム的色彩が、程よくブレンドされた新しいレジャー・
スポーツに驚きを覚えました。

 しかし当時のお小遣いの額に比べてプレイ代は大変高価で、おいそれとボウリングができる
わけではなく、一投一投を惜しむかのような気持ちで投げていました。スコアはひどいもの
でしたが、まぐれでストライクが出ようものなら、嬉しさに天にも昇る心地になったものです。
その頃は成績などには関係なく、純粋にボウリングをできること自体が、自分にとって
意義あることだったのです。

 けれども、やがて学校から指導上の理由で、生徒だけによるボウリング場への出入禁止の
お達しが出てからは、まったく行かなくなってしまいました。やがて歩調を合わせるがごとく、
ボウリングブームも終焉していきました。

 それから長いブランクを経た後に、医師会ボウリング部に入って、再び投げるように
なりました。当初は昔に芽生えたボウリングに対する思いが、まだ残照のように胸の内で
ほのかに輝いていたこともあったためか、ただ投球そのものを楽しんでいました。

 しかし、子供が成長して青年から大人になるにつれ、いつまでも無邪気なままでは
いられないように、マイボール、マイシューズをそろえ、ボウリング入門書を読み、
レーンコンディションを気にするようになってくると、スコアによっては落ち込んだり
するようになりました。いくら練習しても一向に上達しないことに、行き場のない怒りさえ
覚えたりしました。

 ボウリングには、そのときの心理状態も色濃く投影されてきます。スコアを上げようとして
力んだり焦ったりすることで、コントロールが乱れ、さらなる悪循環に陥っていたのでした。

 でも、最近は考え方が変わりつつあります。一日の診療の後に集まり、皆で和気あいあいと
投げて、盛り上がれることの至福だけで十分。無垢な気持ちで投げていた初期の頃を
忘れないようにして、成績に関係なくボウリングそのものを楽しむ境地になってきたのです。
(それを老成と思うのか、はたまた諦めとみるのかは別ですが)

 そうすると不思議なもので、ときには別人のようにいいスコアが出ることもあります。
力が抜けていることで、かえって自然なフォームで投げられているのかもしれません。
しかし次の機会には何故か元の情けない自分に戻っていたりします。
ボウリングの女神は本当に気まぐれなのです。
 
 さあ、どうですか?
 あなたも、ピンアクションにおける偶然性と、トレーニングの成果による必然性とが
織り成す、喜怒哀楽のひとときに身をゆだねてみませんか。

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