タイ古式マッサージ概論


  「タイ式マッサージって痛いんじゃないの?」

 タイに初めて来た私の問いかけに、旅行代理店の現地係員イートさんは断言する。

 「大丈夫、二人でやるヨガのようなもので、ストレッチするのをマッサージ師が助けてくれるから、楽ちんだし、とっても気持ちいいね。私も疲れた時によくマッサージしてもらうよ。でもね、食べ過ぎてお腹ポンポンの時に受けてはだめ。苦しいからね」・・・彼女のメタボ気味のお腹を眺めていると、それなら大丈夫かもしれないという気持ちになった。

 でも、どうだか?───実は以前タイに旅行に行ってマッサージを受け、肋骨骨折をした患者さんを経験している。またテレビ番組で某タレントがタイ式マッサージで、まるで罰ゲームを受けているみたいに、すごく痛がっているのを見たこともある。マイペンライ(細かいことは気にしないという意味)なタイ人の言うことだし、当てにならないかも・・・

 「せっかくタイに来たのだから、タイを楽しんで!」とイートさんはなおも明るく勧める。「いろいろとやってみて〜!」



  気持ちが変わったのは、そのあと観光でワット・ポーという寺院に行ったときだ。ここは巨大な涅槃仏で有名なのだが、一方でタイ式マッサージの総本山でもあった。なぜに僧侶がマッサージを? 実は昔からこの寺院には医学教育施設が併設されていて、薬草の調合の他に、身体マッサージによる治療が行われていた。西欧医学が入ってくる以前、僧侶は仏教の教えを人々に説くのと同時に、医療も施していたのだ。タイ式マッサージの起源はなんと2500年前に遡るという。

 今も寺院内の東屋には、センと呼ばれる人体に流れるエネルギーの経路を記した石板が残っている。このセンを刺激すると、血流促進・疼痛緩和・免疫力向上などの効果があるとされている。ワット・ポーには現在もマッサージ学校があり、マッサージ師の育成がなされていて、希望すれば実際に施術を受けることもできる。医療と関係があると分かれば、マッサージを試さない手はない。

 そこでイートさんご推薦の『MAIDEN MASSAGE』という店に行くことになった。でも確かmaidenは処女とか乙女とかいう意味。処女によるマッサージ店・・・これはなんか怪しいぞ!という予感が(少々の期待も)したが、妻も一緒に受ける予定なのだから、まあ間違いが起こることはないだろうと思い直し、さっそく出かけてみた。



 店はモノレールのチョンノンシー駅から歩いて5分くらいの所。1階の受付で120分のフルコースを申込み、500バーツ(約1600円)を払う。なんと私の担当マッサージ師は若い男性、妻は中年の太ったおばさんだった。店の名前と全然違うじゃないか!とこの時は思ったが、後で辞書を調べたところ、maidenには『初めての』とか、『年輩の女性で未婚の』とか、他の意味もあった。初心者向けマッサージ店とか、元は乙女によるマッサージ店とかいうことなのか(誰か分かる方がいたら教えてください)。

  とりあえず案内された部屋は四畳半くらいで、敷布団が二組引かれ、仄かな灯りがひとつ点いているだけで、なんともシンプル。これから始まるタイ式マッサージは、基本的には二部構成になっている。前半の1時間はゆったりとした指圧で充分に筋肉をほぐし、後半はがっつりとストレッチを行って仕上げをするという段取りだ。



 まずは足へのマッサージから始まったが、かなり時間をかけて、しつこいくらいに揉みほぐす。どうしてフットマッサージに重きを置くかというと、それは10本の重要な「セン」のうち6本が足裏から足首に集中しているためらしい。ふくらはぎへの指圧は特に強烈で、もう勘弁してくださいと言おうと思ったが、ここで止めたら日本人の敗北を認めるようなもの?と思い、必死で歯をくいしばる。妻の様子を横目でみると、なんとも気持ちよさそうに受けている。さすがだ。

 その後全身の筋肉を揉みほぐすのだが、この男性は小柄なのにとてつもないハンドパワーとテクニックの持ち主で、直線的に押したり、円を描くように揉んだり、こすりあげるようにして刺激を加えたりして、入念に筋肉をほぐしていく。体重を巧みにかけて強弱を調整し、太ももなどの筋肉が多いところへは足を使用し、しかも柔らかく圧をかける時はつま先を、強い圧の時は踵を使ったりして、大変芸が細かい。また、背中や腰などは肘で圧することで、手よりも強いマッサージ効果を施すなど、タイ式マッサージの奥義を思う存分堪能した。

 後半のストレッチではマッサージ師のリードのもとで、まるでアクロバットのような姿勢をとらせられる。実は私はスポーツジムでヨガをやっているので、ストレッチのポーズをとるのは慣れていると思っていた。しかし、独りではとてもできそうもないような様々な恰好をさせられ、特にエビ反りのポーズの時に至っては、もうギブアップ寸前。でも隣の妻が頑張っている手前、ここでやめたら一生頭が上がらないと思い、なんとか耐え忍んだ。



  こうして刺激的な2時間が終わった。

 「男のマッサージ師は小柄なのに力強くて、結構ハードでスリリングな時間だったよ」と私が感想を言うと

 「おばさんはマシュマロみたいにお肌が柔らかくて、ストレッチをしてもらっているときも、羽毛布団に包まれているみたいで、とっても気持ちよかったわ」と妻は答えた。

 その日はしばらく揉まれた筋肉が痛かったものの、翌日になったら翼が生えているかのように体が軽くなり、楽々歩けるようになっているではないか。恐るべしタイマッサージの底力。ああ、また受けてみたいな。できるものなら羽毛布団のほうで。


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