

西暦2011年、キャンディーズのメンバーだった、スーちゃんこと田中好子さんが亡くなった。享年55歳、これからやりたいことがまだまだあったろうにと、悼む気持ちで一杯になった。キャンディーズは1970年代の超人気アイドルグループで、ちょうど自分の青春時代と一致していたこともあり、ご多分に漏れず私もファンの一人だった。だがそれとは別にキャンディーズには、今でも忘れ得ぬ特別な思い入れがある。それを語るには、1977年3月の北八ヶ岳山行にまで遡らなければならない。

学生時代はサークルに入って、テントを背負ってよく山へ行っていた。大学2年の春休み、北八ヶ岳に登る計画が持ち上がった。3月下旬に同じサークルの部員たちが、北八ヶ岳縦走を予定していたので、食料デポを行うためだ。デポとは長期に渡る冬山登山などを行う場合、本番の山行の助けになるように、あらかじめ食料や装備などを、山小屋などに運んでストックしておくことを言う。

メンバーはリーダーの3年生が1人と、私を含め2年生が4人の編成だった。山行は3月7日から2泊3日で、縦走予定のコースにある北横岳ヒュッテと青苔荘という2カ所の山小屋に、事前の許可を得て食料をデポする予定だ。現在はいずれの小屋とも管理人がいて、暖房が備わり食事なども給され、快適に宿泊できる体制が整っている。しかし当時、冬の間は営業していなかった。本来ならば山小屋は施錠されているところだが、冬山登山者の緊急避難のために、無人解放されていたのだ。

初日は曇りながらも雪は降っていなかったが、山降ろしの風にまつげが凍り、頬がこわばってうまくしゃべれない。その上前日までの降雪で、北横岳への登山道は雪に覆われていた。ぎゅう、ぎゅう、と雪を踏みしめて歩く音が、風にかき消されていく。特に樹林帯に入ると、参考となるべきトレースも新雪に隠されていて、道もはっきりとしない。コンパスを見て方向を確認しながら、木の枝に結ばれている積雪期の道案内用の赤布を目印に、なんとかルートを探した。

デポ用食料を入れたザックはずっしりと肩にのし掛かり、重さに耐えながら雪道を辿った。誤って少しでも道を外すと、太ももまで雪に埋まって進めなくなってしまう。疲れを防ぐためパーティの先頭を順番に交代しながら、キックステップで足元を踏み固めつつ登る。なんとか樹林帯を抜け、北横岳ヒュッテに到着したときは心底ほっとした。山小屋は他に登山者もなく、ひっそりと静まりかえっている。

初日の目的地に着いて安心したのも束の間、ラジオで放送される全国の気象概況に基づいて、天気図を作画してみたところ、我々は思わず天を仰いだ。日本の西には発達した低気圧があり、前線を伴って東へ移動してきている。ここ北八ヶ岳でも明日は大荒れの天気になりそうだ。安全のためテントに泊まるのは止め、山小屋で過ごすことにした。

案の定、夜になると猛吹雪となり、翌朝になっても治まる気配はない。小屋を揺さぶる強風が唸りをあげ、雪は止めどなく降り続けた。小屋の外でちょっとトイレをすませるだけで、雪だるまになってしまう。前日に水筒へ入れておいた水は、全て凍結している。やむなくリーダーが、このまま1日停滞することを決断。

ところで、停滞と言っても決して楽なものではない。電気や火の気のない薄暗い山小屋で、着られるだけ着こんで寝袋にくるまり、いつ果てるともなく続く吹雪を恨めしく思いながら、零下の寒さに震えて過ごしているだけだ。やることもないので天気予報でも聴こうかと、ラジオをつけてみると、ちょうど音楽番組をやっていた。ディスクジョッキーがキャンディーズの「春一番」という曲を、まさにこれからかけるところだ。

今日の下界は春一番が吹き荒れ、風は強いけれど春の兆しも感じられるとのこと。山の上は厳冬期のような寒さなのに、町はもう春なのか。急に里心が芽生える。ああ、どうして自分は好きこのんで、こんな寒くてつらい思いをしに、わざわざ北八ヶ岳まで来てしまったのか。こたつに入ってぬくぬくしたり、暖かい風呂につかったりしたい。そんなふうに心が折れそうになったとき、春一番のメロディーが流れ始めた・・・

もうすぐ春ですね、ちょっと気取ってみませんか
もうすぐ春ですね、恋をしてみませんか
不思議なことに曲を聴いていると、キャンディーズの歌声が体の中をゆっくりと回り、ほんわかとした温かさを残して、通り過ぎていくような感覚を覚えた。この歌の持つ無邪気な明るさの為せる技なのかもしれない。今は確かにつらくて苦しいけれど、吹雪は永久に続くものではない。なんとなく楽観的になる。ラジオ番組はキャンディーズの特集だったので、この後も数々のヒット曲を流し続けた。我々はキャンディーズの歌を聴きながら、なんとか無事に停滞日をやり過ごした。

翌朝は低気圧が本州を完全に通り抜けてしまい、寒かったけれど快晴となった。小屋の外に出てみると、餌を探しに来たのか、1匹のオコジョが雪の中から顔を出している。吹雪は過ぎ去ったのだ。モルゲンロートに染まる樹氷に見送られ、次のデポ地点である青苔荘に向けて、元気に出発することができた。

毎年、春一番のニュースを聞くたびに、今でも吹雪に閉ざされた山小屋を思い出す。風の咆吼や、凍てつく寒さや、舞い狂う雪を思い出す。そしてそんな暗い状況の中で、灯火のように心を明るく照らしてくれたキャンディーズの「春一番」のことも・・・合掌。
エッセイ集に
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