カウアイ島の小さなカフェ物語



 「ノスタルジックなハナペペの町にあるレストラン、『ハナペペ・カフェ&エスプレッソ』
は、まさに穴場中の穴場。ここで評判なのは、本格派エスプレッソコーヒーと、地野菜を
使ったヘルシー感覚の料理だ」とガイドブックには書かれていた。

 夏休みに家族でハワイのカウアイ島を訪れ、レンタカーでドライブをしていた。昼食時
になったし、帰り道沿いでもあるし、そこに立ち寄っていくことに決めた。空模様は午前
中から怪しかったが、とうとう雨が降り始めた。ハワイに来たというのに天候不順で肌寒
く、湿った空気が肌にまとわりつく。しかも我々は時差ぼけまで引きずっていて、調子は
少々落ち込みぎみだった。

 ハイウエイから横道に逸れ、ハナペペのダウンタウンへと車を走らせて目に映ったもの
は、ノスタルジックなどという感傷の入る余地もない、まさに荒涼とした風景だった。多
くの家に『売家』の看板がかかり、薄汚れた車が何台か道沿いに駐車されている。どこに
も人の気配などない。空はますます暗くなり、驟雨に煙った町並みが、モノトーンの風景
へと霞んで行く。まるで水墨画の世界。辺りは雨音の他に何も聞こえない。ここは本当に
ハワイ?・・・・・1992年のハリケーンが、町を廃屋ばかりが立ち並ぶ、ゴーストタウン
に変えたことを知ったのは後のことだ。

 後続車も無いので車をゆっくりと進ませていると、すごく目立たない看板がやっと見つ
かった。カフェは木造でひなびていたので、家族一同やや不安になったものの(確かに穴
場中の穴場かもしれない)、空腹には勝てず、意を決して店のドアを開けた。

 ところが、内装はシンプルで明るく、入店前の勝手な想像-------西部劇に出てくる場末の
酒場で、ならず者が酒を飲んでいる-------とは大きく違っていた。先客が4人ほど食事をし
ていて、美味しそうな匂いが漂ってくる。夫婦二人の経営らしく、ウェイターの奥さん(50
歳くらい、金髪。カーペンターズに似ているので、名前を仮にカレンとする)は、満面の
笑みをたたえて席に案内してくれた。ご主人は厨房で料理の最中で、髪を長く伸ばしてひ
とつに束ね、顎鬚を蓄えた哲学者的風貌を備えていた(リチャードとする)。

 トイレの前の壁には、様々な国で撮られた若き日のカレンとリチャードの写真が、たく
さん貼り付けられている。昔二人は、バックパッカーとして世界中を旅した。そして放浪
の果てにカウアイ島に辿り着き、ハナペペが気に入って居つき、小さなカフェを始め
た・・・・・またも勝手な想像を巡らせているうちに、カレンが注文を取りに来た。さて、
ここは父として流暢にオーダーし、息子たちに英語学習の意義を示さなければ!
 
 「えーと、子供たちには、グリーンサラダとハンバーガーとジンジャーエールをくださ
い。私たちには何かお勧めはありますか?」
 「トマトソースのパスタが自慢です。それから、エッグプラントを使ったラザニアも美
味しいですよ」
egg plant = 卵植物? それは何ですか?」
「紫色で楕円形をしたあっさり味の野菜です」
「???」
 よくわからず問答を繰り返していると、中学1年になった次男が、「エッグプラントって、
ナスのことだよ」とクールに言う。そんなことも知らないの、まだまだだね、という視線
がきつい。

 こ、これではいけない。父親の威厳が・・・。今度こそ、うまく注文してみせよう。「そ
れでは私はパスタ、妻にはラザニアをください。それと食後にはエスプレッソも」
 「わかりました。ハンバーガーには、キャッチ・アップが必要ですか?」
 「catch up = 追いつく?、捕まえる? これからリチャードが牛を捕まえて、ハンバ
ーガーを作るのかな」などと言っていたら、「ケチャップと言っていると思うけど」と今度
は高校1年の長男が、ふぅ、やれやれといった感じで、つぶやく。
 まあ、息子たちには、ある意味で、英語の大切さがわかってもらえたようだ。

 でも、リチャードの食事は信じられないほど美味しかった。特にトマトソースは爽やかな酸
味が舌の上で弾け、野菜も瑞々しくて、噛みしめると鮮烈な味わいが口の中にさっと広が
る。それにも増して、私の拙い英語に辛抱強く応対してくれた、カレンの陽だまりの様な
暖かさが、何よりも心を和ませてくれた。
 
 店を出る頃には雨は小降りになり、千切れた雲の狭間より光も射してきていた。どこか
らか小鳥のさえずりも聞こえる。セピア色だったハナペペの町は、急に色彩を取り戻し、
生き生きと輝いて見えた。

 「虹が出ている!」
次男が空の彼方を指差す。
ホテルに着く頃には気温も上がって、プールに入れるかもしれない。
いつの間にか少しずつ、我々の調子も戻って来ていた。

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