続・洪水体験 

 


 これはエッセイ集に掲載されている「洪水体験」の続きです。

 その後も津田沼に住み続けたのは、
洪水さえなければ大変住みやすい所だったからだ。
幸いにして二度と水が出るようなこともなく、
駅から至近で自然環境も良好な
当地での暮しは、平和で快適そのものだった。

 やがてあの大水は何かの間違いで、
一時の悪夢に過ぎなかったとさえ思うようになった。
しかし数年後の昭和62年秋、運命の歯車は、またしても私を
後戻りのできない状況に向けて、急速に動き出していた…

 当時は千葉大学の大学院で、学位論文作成にいそしんでいた。
その日の朝から台風の上陸を告げるニュースが、
ひっきりなしにテレビから流れ、
天気予報では麻雀の満貫みたいに四飜役もついた、
『大雨・暴風・洪水・波浪警報』が告げられていた。

 お昼ごろが一番のピークで、
研究室の窓を激しく打つ雨を眺めながら、
もしかしたら津田沼では再び水が出るのではないかと危惧した。
以前の体験から暗くなると道路状況の把握が
正確にできないことが分かっていたので、
夕方には研究を切り上げ、可及的速やかに車で家路へと急いだ。

 幸いその頃には悪天候は峠を越したようで、
風雨も治まってきていた。
でも国道16号線を通って帰宅するルートは、
前回水が出たときに車を故障させた箇所を再び
通らねばならなかったため、同じ失敗を繰り返さぬよう、
今回は14号線を使って帰るコースを採った。
            


 雨も小止みになってきたことだし、
無事に帰れるだろうと少し高をくくっていた
(後で知ったことだが、雨が止んだ後から
水が出ることのほうが多いのだそうだ)。

 国道はタイヤの蹴散らす水しぶきが烈しかったものの、
大きな問題もなく通行できたが、
自宅に通じる一般道に入ったとたん、
大渋滞に巻き込まれてしまった。
1分間に100mも進まず、1時間かけてようやく
自宅まであと2kmの習志野市役所前まで来た。

 しかしここで車の流れはぴたりと止まってしまった。
カーナビがあれば道路交通情報も手に入れられたのだろうが、
もちろん当時そんなものは存在していない。
携帯電話だってない時代なのだ。

 それからいつまで経っても車は進まず、
せっかく明るいうちの帰宅を目論んだのに、
辺りはすっかり暗くなってしまった。
まったくの想定外だ。

やがて前回の経験が私にそっと告げ始めた。
これはもしかしたら先頭のほうで水に浸かった故障車が続出して、
にっちもさっちも行かない事態になっているのかもしれないと。
だとすればまず短時間での修復は不可能なはずで、
いつになったら帰れるのか見当もつかないことになる。
もう、なんというデスパレートな状況なのか。
            


 しかしふと周りを見回すと、市役所の駐車場はがら空きであった。
まあ、それはそうだろう。
台風のときに役所へ来る人はあまりいないし、
だいいち、とうに業務は終わっている時間なのだから。
ここでアイデアが浮かんだ。

 そうだ、車をひとまず市役所の駐車場に置いて、
徒歩で帰宅したらどうか。
こんなところでいつ果てるともなく待っているより、
歩いたほうがよっぽど速い。
明朝早く自宅を出て車を拾えば、市役所の迷惑にはならないだろう。
幸い雨も上がったし、我ながら名案だと思えた。
当時はのんびりしていて駐車場のゲートなるものはなく、
道路から直接駐車できたのだ。

 こうして車を置いて徒歩で自宅へと向かっていくと、
やがて何台ものエンストした車が道路を塞ぎ、
渋滞の原因となっている現場に到達した。
予想は正しかったと自分の状況判断に満足し、さらに歩を進めた。
でも私は大変重大なことを忘れていた。

 Oh, ジーザス! 
 車が通れないような道路は人も通れないのだ!
 

 帰るには総武線の高架線下をくぐらなければならないが、
その道は下り坂になっていて最下部は大きく窪んでいる。
なんとそこに大量の水が溜まって池になり、
行く手を遮っていたのだ。
ここでもすでに水に浸かった車が何台か、
海中遺跡のようにその姿をさらし、
見る者に無常感を呼び起こさせていた。

 でも如何せん、これでは自宅へ帰れない。
大回りしてとにかく別ルートを探そうか。
途方にくれて佇んでいたら、夢か幻か、
なんと池の彼方の仄暗い闇の中から突然一艘の小舟が現れ、
こちらへ近づいてくるではないか。
おいおい、ここは矢切の渡しなのか? 道路じゃなかったのか? 

 しかし眼をこらしてよく見ると、それは災害用ボートで、
この地区の消防隊が用意したものだった。
どうやら誰かを乗せて対岸から向かってきているらしい。
やがて舟はゆっくりと接岸した。
お客さん(というか避難民というか)を降ろした後、
「どうぞ乗ってください。向こう岸までお連れしましょう」という、
渡し守(消防隊員)から発せられた声は、
この時かのパバロッティのそれよりも神々しく私の耳に響いた…
            


 道路だったところは今や水没し、
私はその上を舟に揺られて進んでいる。
周囲の民家の明りが水面に映えてゆらゆらと踊る。
走っている車がないためか辺りは驚くほど静かで、
櫓を漕ぐ音も夜のしじまの中に吸い込まれていく。
ふと昔読んだ創世記のノアの箱舟が思い出された────

  箱舟が完成すると、ヤハウェはノアに「家族とともに乗船せよ。
  清い動物と鳥7対ずつ、清くない動物1対ずつも一緒に載せよ。
  7日後から40日40夜のあいだ雨を降らせ、
  わたしが創造したすべての生き物を、
  地上からぬぐいさるからだ」と命じました。
  いよいよ全地を裁く大洪水がはじまるのです・・・


────まあ、これ程ではないにせよ(あたりまえだ)、
日常とは別の世界にいるような不思議な感覚を覚えていた。

 津田沼の地形はアップダウンが多く、対岸に着いても
その先の道路には、再び池が待ち構えていた。
でも幸いなことに、それぞれに消防隊の舟が待機していてくれたので、
全部で3回舟を乗り継いで、ようやく自宅マンションまで辿り着いた。
普段は30分もあれば帰れるところ、大学を出発してから
すでに3時間が過ぎようとしていた。

 私は潮来や佐原に(もちろんベニスなどにも)行ったことはないが、
水郷地帯ってこんな感じなのだろうかとぼんやりと考えた。
ともあれ部屋の中で妻の淹れてくれた暖かいコーヒーを飲んで、
ようやく人心地ついた。
ふう、無事に帰れてよかった。
習志野地区の消防隊の皆様のご尽力には、本当に感謝感激であった。

 ここ数年、日本では新潟や九州、
アメリカではニューオーリンズなどをはじめとして、
洪水のニュースに接することが多い。
そのたび当時を思い出し、他人事ではない思いに、胸を鈍い痛みが走る。
人々が安心して暮らしていくためには、医療体制の充実も勿論大事だが、
都市防災計画や治水事業も、必要欠かざるべきものだと
つくづく思う出来事だった。

 ちなみに下の写真は大洪水の中、決死の思いで撮影されたものです。
        

 


(すみません、冗談です。この夏にプールで撮ったものでした)

             

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