熱帯の蛍
 
 マレーシアへ行ったときの蛍見物の話。旅行会社のオプショナルツアーに参加し、夕方に首都クアラルンプールのホテルを出発した。直前にスコールが始まり、蛍ツアーは中止かと心配したのだが、ガイドは「現地の天候はこことは違うので、とりあえず行ってみないと分かりません」とアバウトに言う。

 不安を胸に抱いたまま郊外に出たマイクロバスは、猛スピードで道路を滑走し、郊外の大規模マンション群(4LDK、プール完備、家具付きで月12万円の賃貸料。リタイアした日本人の長期滞在者の利用が多いとのこと)を後に、油椰子のうっそうと生い茂るプランテーションを抜け、クアラルンプールの約70km北に位置するクアラセランゴールという町に到着した。

 クアラルンプールは高層ビルが建ち並ぶ大都会だが、ここはセランゴール川がマラッカ海峡に注ぐ河口に開けた小さな漁師町だ。海に近いこともあって川幅は広く、群馬の急流と違ってゆったりと流れている。川を渡ってくる風も穏やかで心地よい。この川の支流に蛍が生息しているとのこと。
 
 心配していた天気も問題ないようなので、蛍鑑賞の前にまずは川岸にせり出して並んでいる水上レストランで腹ごしらえをした。河口や海で取れた蟹、海老、魚を中華風に味付けしたメニューで、地元醸造のタイガービールを飲み、夕暮れの川面を眺めながらシーフードを堪能した。

 びっくりしたのは丸ごと登場した焼き蟹で、まず布で蟹をくるんでおき、自ら金槌で殻をかち割ってから、中身をしゃぶるように食べる。口や手はべとべとで、ワイルドな食べ方にお国柄の違いを痛感した。
 
 夕食後は近くをそぞろ歩きしてみた。レストランの周囲には数件の土産物屋もあり、名物の海老せんべいが売られている他には、特に見る物もない素朴な感じの町だ。数匹の放し飼いの犬が、道路をのんびりと歩いているのが目についた。そうこうしている内に黄金色に染まっていた空は、いつの間にか群青色に変わり始め、否応なしにこれからの蛍見物に期待が高まってきた。

 ここから5分ほど車に乗り、目的地のファイヤーフライ・パークリゾートへ着いた。ちなみに蛍はファイヤー・フライ────しかし直訳すると火の蠅ですよね────と言うのだそうだ。この一帯は蛍の保護地区に指定され、木々の伐採を禁止するなどして、乱開発から守られているとのこと。簡素なエントランスを抜けると、待合所となっている東屋とそれに続く小さな船着き場があった。ここから船に乗って蛍を見る予定なのだが、すでに香港からの団体客が大勢いたために、1時間の順番待ちとなってしまった。その間に辺りはすっかり闇に包まれ、わずかな灯りだけが頼りなった。

 することも無く順番も一向に来ないので、外のベンチに所在なく座っていると、ガイドが、「お客さんの後の木にも少しですが蛍がいます」と教えてくれた。驚いて後を振り向いて目を凝らしてみると、黒い木陰の間に点滅する小さな光に気づいた。光は1秒間隔くらいの一定のリズムで、規則正しく点滅している。日本の蛍の儚げで繊細な光とは違って、白色発光ダイオードのような、きりりとした鮮明な明るさだ。南国の蛍は土地柄からか、おおらかで華やかなのだ。しばらくすると眼が慣れてきて、あちこちの枝葉にチカチカとした光が点在しているのに気づいた。

 「これから訪れる川辺に自生しているブルンバンというマングローブには、蛍が繁殖の場として特別に好んでいるので、もっと多くの蛍が集まってきているのです」というガイドの話に胸が高鳴る。
 
 さて、香港の観光客を乗せた船が帰ってきて、ようやく順番となる。蚊に備えて虫除けジェルを抜かりなく肌に塗り、ライフジャケットを着用後、足元に注意しながら薄暗い桟橋を渡って、船着き場から10数人乗りの小型ボートに乗り込む。やがてボートはすべるように岸を離れ、ゆっくりと川面を進み始めた。

 目線のすぐ下に水面があるので、銀色の月明かりに照らされた、滑らかな川面の様子が手に取るように分かる。川幅は50メートルほどであろうか。ボートは電動モーター仕様のため、騒音は極力抑えられていて、舳先が水面をかき分けるときに生じるさざ波の音が間近に響く。排気ガスもないので環境に対してもクリーンで、蛍の生態系に極力影響を与えないための配慮がなされている。

 ボートが川を横断して岸に近づくと、群生しているブルンバンの木々に点滅する光が見えてきた。ガイドの言ったように蛍の数は数え切れないほどで、まるで同調しているかのように、一斉に点滅を繰り返している。それは天然のクリスマスツリーか、天空の星々の瞬きか、はたまた年末の高崎が誇る?光のページェントか・・・ 個々の光はときどき木々の間をすばやく移動していて、生き物の動きを感じさせられる。

 乗客は誰もが無言になり、ひたすらこの静かな景色を凝視していた。深い感動を覚えたときには、人はみな言葉を失ってしまうのか。癒しの光の中では、この沈黙がまた心地よい。
   
 やがてボートはゆっくりと川を遡り、マングローブの生い茂る川岸に沿って上流へと進んでいった。煌めく木々の幻想的風景は延々と続き、メルヘンの世界へと誘われていくようだ。涼しい川風が体を撫でるように吹いてきて、時間はいつもよりゆっくりと流れていく。

 川岸の奥には漆黒のジャングルが広がり、深い静寂の中からミミズクなのか猿なのか、ホッホッーという啼き声が耳に届いてくる。暗く深遠な森は、得体の知れない危険とともに、圧倒的な威厳に満ちていて、こんな夜には人は決して奥へ立ち入ってはいけないと、森の神様が語りかけているようにも思われた。

  ボートはしばらく川の上流に向かった後、引き返して船着き場へと戻った。正味30分くらいの船旅だった。感動覚めやらないまま、後ろ髪を引かれる思いで帰りのバスに乗ったのだが、「ホタル見物は30分くらいがちょうどよいのです。もしもさらに30分同じ光景を見ていたとしたら、少し飽きてきてもう結構という気になったはず」とのガイドの言葉に何となく納得もした。
 
 クアラルンプールに引き返すバスの車窓からは、遠くの町の灯や車のライトが眼に入ってきた。それは私をして、今し方見てきたばかりの神秘の光景が、まだ続いているような不思議な気持ちにさせた。目を閉じると瞼の裏にも、ホタルの光の点滅が残像となって輝いていた。

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