最高に気持ちのよい秋の日の登山について 
                              


 眠りから覚め、まどろみの中で目に映ったのは、見慣れない天井だった。
       なぜ、いつもの家の天井ではないのか? 
       いったい今どこにいるのか?
 しばらくは理解できない状態だった。それほど深い睡眠だったのだ。

 ふと気がつくと、折りたたんだテントを枕にして寝袋に入っている。
辺りには同じように寝袋にくるまっている友人もいる。
そうだった、ここは中央本線の茅野駅なのだ。
昨日僕は新宿発の最終列車で、八ヶ岳登山の出発地点であるこの駅に降り立ち、
そのまま待合室で、部活の仲間4人と一夜を明かしたのだ。

 それにしても駅で寝泊りすると、いつもは眠りが浅くて
何回も起きてしまうのに、今回は場所も分からなくなるほど熟睡できた。
きっと枕代わりにしたテントがピッタリと頭にフィットしていたのだろう。

 外へ出てみると、まだ早朝だというのに、
雲ひとつない秋特有の抜けるような青空が迎えてくれた。
溢れんばかりの光の粒子がやさしく降り注ぎ、
大気はきりっと澄んで、すずやかな風が気持ちよく渡っていく。
それは祝福に満ちた1日の始まりを思わせる、見事に美しい朝だった。

 一度でも登山をしたことがある人ならば、天候の良し悪しが
登山の楽しさにおける重要な要素のひとつであるということに異論はなかろう。
今回は本当についていた。きっと普段の行いがよかったのに違いない。

 朝食をすませ荷物をパッキングし、バスに乗って登山口の美濃戸口へ着いた。
八ヶ岳はいくつもの山塊から成っており、
すでにそのひとつである阿弥陀岳の威容が臨まれる。
ここから本日のテント設営場所の行者小屋まで約3時間の行程である。

 軽やかな小鳥たちのさえずりや葉擦れの音が心地よい樹林帯を抜け、
赤や黄色のあでやかな紅葉に彩られた沢に沿って登っていくと、
前方に2899mの主峰赤岳もくっきりと見えてきた。
今日はあそこまでアタックする予定だ。

 こんなとびきりの秋晴れの日に、頂上から眺める景色を思うと、
胸の高鳴りが抑えきれない。
富士山、南アルプス、中央アルプスは言うまでもなく、
遠く御岳や北アルプスの峰々に及ぶ大パノラマが待っているはずだ。
             
 行者小屋まであと少しのところで、「本当に最高の登山日和だね」
と歩きながら僕は思わず言った。
「確かにこんな天気は珍しいよ。去年は秋雨前線が停滞していて散々だった」
とリーダーのYさんがうなづいた。
「メンバーがみんな晴れ男と晴れ女なのかもね」
とサブリーダーのKさんも相槌を打った。

 僕が「それに昨夜よく眠れたせいか、体調もすごくいいみたいだ。
足がとっても軽いし、いつもは重く感じるザックもほとんど苦にならない」
と言うと、すかさずYさんは
テントが入ってなかったりして」と冗談を返した。

 皆一斉に笑った。
それは面白い、テントを忘れているなんて、ナイスジョークです、
と言おうと思った瞬間、何かが僕の胸の中を走り抜けた。
そして引き続いて潜在意識に隠されていた密やかな真実が揺さぶられ、
ゆっくりと目を覚ましてくる気配がした─────まあ簡単に言うと、
テントをザックにしまった覚えがないことに気づいたわけだ。

 まさかと、僕はあわててザックを下ろし、中身を確認した。
すると、ない! ない! ない!
本当にテントが入っていない! 
茅野駅で枕代わりに使って、そのまま置いてきてしまったのだ。
信じられない、痛恨の失敗である。天候と身体のあまりの絶好調さにうかれ、
注意力が散漫になっていたらしい・・・・・

 テントは6人用のため、これひとつしか持ってきていない。
つまりこのままでは、今夜泊まるべき手段がないのである。
メンバーの顔からスローモーションのように笑顔が消え、
代わって失望の色が浮かんでくるのが見えた。

 その後の時間は、海の底に深く沈みこんでいくかのように長く感じられた。
行者小屋を目前にして、僕はKさんと一緒に
苦労して登ってきた登山道を下り、バスに乗って茅野駅へと引き返した。
他の3人は先に行者小屋へ向かい、待機していることになった。

 テントは待合室に放置されたままになっていて、駅員さんの
「いやー、テントが忘れられているのに気づいたのだけど、そのときは皆さん、
すでに出発してしまった後だったので、どうしようもなかったんだよ」
という言葉をむなしく聞いた。
何はともあれテントを回収するや、再び美濃戸口へ戻った。

 くたくたになって行者小屋にたどり着いたときには、眩いばかりに青かった空は
暗い群青色へと変わり、夜の帳が下りようとしていた。
キャンプサイトの薄闇の中に仲間をようやく発見できた・・・・・
              
 こうしてその日、我々は赤岳に登ることができなかった。
どんなに非難されるかと心配していたが、皆は
「ミスは誰にでもある。しかたないよ」と慰めてくれた。
夕食に仲間が作っておいてくれたカレーライスを食べながら、
持つべきものは山の友とつくづく思った。
それ以来僕は他人のうっかりミスには、なるべく寛容であるように努めている。

 翌日は曇っていたものの、霧は発生していなかったため、
何とか登頂した赤岳からの展望は、まずまずだったのが不幸中の幸いだった。



  “ Lights are usually followed by shadows. ”

 光あるところ必ず影ができるように、最高に気持ちのよい秋の日の登山にも、
思わぬ落とし穴が待ち受けていることがあるのだ。
はるか大学時代の忘れえぬエピソードである。

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