犬脱走 パート1
 数年前のことだが、どこからか柴犬が庭に迷い込んできたことがあった。
おりしも家族で飼い犬におやつを与えようとしていたので、突然の招かれざる
客に我が家の犬は、おやつを横取りされるのではないかと、吠えまくって
大騒ぎになった。
ところが迷い犬は吠えられても一向に意に介さぬばかりか、
我々がおやつを持っていることに気付くと、ありとあらゆる技を披露して
それをゲットしようとした。
お手、おかわり、お座り、伏せ、チンチン、ハイタッチ、おまわり、ジャンプ、
二足歩行と、犬芸の道にかけては格段に秀でていて、オリンピックで言えば
金メダル級のパフォーマンスを披露した。

 当時まだ年若くしてあまり芸ができなかった当家の犬は、家族の注目が
珍客に集まってしまっているため、必死にワンワンと鳴いてアピールしたが、
残念ながら我々の関心を引き寄せることはできなかった。
「ご覧なさい、これこそが犬の芸ですよ。お前もこれから精進を重ねて
ここまで上り詰めてみなさい」と、母から逆に諭される始末。
 しばらく脱走犬をかまっていたところ、外を警官が通りかかり、
「飼い犬が脱走したという連絡を受けて探しているところだが、
その犬はお宅の犬ですか?」と尋ねてきた。
事の次第を話すと「それでは探しているのはこの犬に違いないので、
早速保護します」と、犬にリードを付けようと近づいた。

すると弁慶に襲われた牛若丸もこうであったか(いささか例えが古いですが)
と思わせるほどに、犬はひらりと身をかわした。
そして警察官の股間をくぐり抜けるやいなや、疾風のごとく逃走していった。
芸の道に通じている者は、その技を応用してどんな状況にも即座に
対処できるのだ。
脱走犬はすでに道路の反対側まで逃げて、ここまでおいでとばかりに
悠々とこちらをうかがっているではないか。
警察官は慌ててそのあとを追っていった。
その後聞いた話では悪戦苦闘の末、何とか取り押さえることに成功し、
犬は無事に飼い主の元へ戻ったとのこと。
それにしても犬を捕まえるのは大変なことですね。

 ちなみに調べてみたところ、犬の保護法はいまだに
アンメットニーズで、絶対的な解決策はないようだ。
とりあえず大切なのは、その犬に咬まれないこと。
知らない場所で知らない人に会って犬は警戒しているはず。
まずはやさしく声をかけて反応を見て、次にしゃがんで姿勢を低くして
声をかけ続け、犬が自ら寄ってくるまで待つ。
犬が近くまで来て体を触らせてくれるようであれば、驚かせないように
ゆっくりリードを繋いで保護する。
以上が一般的な方法だが、慣れていないとかなりハードルが
高いのではないだろうか。

 犬脱走と言えば思い出すのが、私が子供の頃に我が家にいた
チャコという犬のことだ。
当時は犬の飼育もおおらかで、日中は鎖に繋いでいるが、夜になると
塀に囲まれた庭に放して自由にさせていた。
するとチャコは忍者のように塀の隙間を見つけてすり抜けたり、
塀の下の地面に穴を掘ってくぐり抜けたりして、夜の街へと何度も
遊びに出かけていた。
でも朝になると必ず帰って来るので、しょうがない犬だなと思いながらも、
あまり心配はしていなかった。
しかしある日のこと、チャコはいつまでたっても戻っては来なかった。
近所を探したり、警察や保健所に問い合わせたりしたが、
とうとう行方は分からなかった。

 「チャコはどこに行っちゃったんだろう?」と母に尋ねたところ、
「そうねえ、チャコは夜霧に消えたのよ」という返事が返ってきた。
チャコは夜霧に消えた?・・・あまりに謎めいた答えに面食らったり、
その詩的な言い回しに感じ入ったりしているうちに、
私の寂しい気持ちもいつしか霧みたいに消えていった。
でも最近になって、『夜霧に消えたチャコ』という
フランク永井が歌っていた曲があるのを偶然知った。
なぁんだ、これを引用していたのかと、思いがけない種明かしが
分かったところで、今は亡き母との懐かしいひとこまをしみじみと思い返した。

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