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98.08.24

あえかな乗鞍岳

 前回のように、1回に5例も手持ちの用例を出すという大盤ぶるまいをしていると、どうも身が持ちません。今回は少しにしておきます。
 北杜夫氏の『神々の消えた土地』は、戦時中、離ればなれになった少年と少女が、「ダフニス」と「クロエー」という名で文通を続け、やがて信州の松本の自然の中で再会するという美しい小説です。ペンネームで文通するところは今のパソコン通信などにも通じるものがあります。
 ところで、アルプスの山々を描写する場面が、ちょっとひっかかる。

 そして、塩尻の駅を過ぎると、西の窓に忘れることのできぬ北アルプス連峰が遙かに連なっているのを、係恋の情を抱いて私は望見した。黒い谿間の彼方に聳える全身真白な乗鞍岳は、あたかもあえかな女神が裸体を露わにしているかのようであった。
 私はこの前にも、この雄大な光景に接したはずだった。だが、このとき、どうして山々があのように壮麗に、そしてたそがれの忍び寄りだした空がいかに蒼みの極致として目に映じたのだろうか。(北杜夫『神々の消えた土地』新潮社版 1992.09.20発行 p.84)

 「あえかな女神のような乗鞍岳」というのは、僕の感覚では「弱々しい、病弱で死んでしまいそうな美しさを持った女神のような乗鞍岳」というふうに解釈されます。「あえか」というのは、昔のお姫様のような弱々しい美しさなんですね。
 ところが、そのすぐ後に「雄大な光景」と書いてあるのが、ちょっと分からない。か弱い美しさと、雄々しく力強い山並みというのは、両立するのだろうか? 北杜夫氏は、「あえか」の古い意味を誤解しているか、あるいは独特の意味で使っているのではないかと思います。
 同氏には『白きたおやかな峰』という山岳小説がありますが、「たおやか」とか「しなやか」といった意味で、この「あえか」を使っているのかもしれませんね。でも、真意は作者に聞いてみないと分かりません。

 同じように、文中に古語がぽっと使われていて、作者の真意が分からない例がほかにもあったな……。あ、そうそう、小林信彦氏が江戸川乱歩について書いた文章です。
 小林氏によれば、乱歩という作家は新作を書いても読者に「なつかしさ」を感じさせる作家だった。登場して数年で『乱歩全集』が出たとき、その新聞広告には、早くも「懐かしの乱歩!」といううたい文句が踊っていたそうです。

 タネを明かせば、これは昭和三年の夏に、「新青年」編集長、横溝正史が自ら筆をとった謳い文句である。登場してわずか五年で、〈昔日の江戸川乱歩〉になるこの不可思議さ! ここに江戸川乱歩独特のあやかしがある。作品自体が〈なつかしい世界〉なのである。(小林信彦『回想の江戸川乱歩』文春文庫 p.70)

 この「あやかし」が分かりませんでした。「乱歩独特のあやかし」とは何だろう? 「まやかし」の間違いではないのかな。
 『広辞苑』をみると、「あやかし」は「(1)海上にあらわれる妖怪。あやかり。海幽霊。(2)転じて、怪しいもの。妖怪変化。」とあります。ほかの2、3の辞典を見ても、まあそんなところです。
 小林氏は、きっと、「不思議さ」というほどの意味で使っているのでしょうね。直前にある「不可思議さ!」の類語という意識でしょう。
 ただ、辞書の説明をみると、この「不思議さ」というのは、妖怪変化のような不思議さや怪しさであり、「乱歩がデビュー間もないのに懐かしさを感じさせる」という場合に使えることばかどうかは、僕は知りません。

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